(以下は『秀吉戦記』谷口克広著から抜粋
2011年4月1~5日にノートにとり勉強)
天文6年(1537年) 1歳
2月6日 尾張の中中村で生まれる。
永禄元年(1558年) 22歳
9月 織田信長に仕え始める。 (太閤記・武功夜話より)
永禄4年(1561年) 25歳
おねと結婚する。
永禄7年(1564年) 28歳
美濃(斎藤家の支配下)の伊木城と鵜沼城の調略をし、寝返させるのに成功。
永禄8年(1565年) 29歳
8月23日 木下藤吉郎の署名のある初見文書が残されている。
この時点で領地を持つ部将に昇格していたと判る文書。
永禄9年(1566年) 30歳
9月 墨俣での築城に成功する。(太閤記・武功夜話より)
築城に7~8日かかったと太閤記には出ている。
永禄10年(1567年) 31歳
9月 斎藤家の本拠である稲葉山城の攻め落としに参加。
織田信長が斎藤家を倒して、美濃を領土に入れた。
永禄11年(1568年) 32歳
9月 信長の上洛軍に参加。箕作城を佐久間信盛・丹羽長秀らと攻略する。
10月 京都の守りを佐久間・村井・丹羽らと共に担当する。
☆この時点ですでに有力部将の一人にまで出世している。
永禄12年(1569年) 33歳
8月 伊勢の北畠氏攻めに参加する。
元亀元年(1570年) 34歳
3月18日 初めて毛利家の小早川隆景に書状を出す。
4月30日 越前の朝倉家攻めに参加する。
浅井家の離反で織田軍は撤退することになり、秀吉は金ヶ崎城にて殿軍を担当。明智光秀や池田勝正らと共に殿軍として戦う。
6月 近江の堀秀村を寝返らせる。竹中半兵衛の説得で堀は決心したという。
堀は近江の有力な領主で、この後に秀吉の与力となるが、当初はほぼ秀吉と同格の扱いを信長から受けていた。
6月28日 姉川の合戦に参加。織田・徳川軍は朝倉・浅井軍に勝つ。
7月 浅井氏の本拠である小谷城に最も近い横山城に配されて、その城主となる。
これは浅井攻めの先鋒に起用されたことを意味する。
10月20日 志賀の陣に参加。
元亀2年(1571年) 35歳
5月6日 堀秀村のいる鎌刄城が浅井軍に攻められる。
秀吉・堀の軍は兵士数で劣っていたが大勝する。
10月 浅井方の最前線にいる部将・宮部継潤が、調略によって寝返り、秀吉の与力となる。
元亀3年(1572年) 36歳
7月 信長自らが浅井氏攻めに出陣する。秀吉は22日に山本山城を攻める。
7月28日 朝倉軍が浅井の救援に現れる。
だが大将の朝倉義景は武田信玄と連絡を取っており、信玄の上洛を待つ作戦を取って動きを見せず。
9月16日 最前線の虎御前山砦に配置される。
ここは小谷城と2kmの距離。
この砦を、投降したばかりの旧朝倉家の部将たちと一緒に守備する。客将たちを指揮するのは初めてだった。
11月3日 朝倉・浅井の連合軍が攻めてくる。しかし秀吉らは1/3の兵力で撃退する。
これにより朝倉義景の心は折れ、12月3日に越前に退却した。
天正元年(1573年) 37歳
7月 再び挙兵した足利義昭の討伐のため、近江から出陣し参加する。
7月頃 丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらい、羽柴と名乗る。(それまでは木下姓)
7月 義昭方の石成友通の配下を調略し、寝返らせる。
これにより石成のいた淀城は落ち、石成は討ち死にする。
8月8日 近江に帰り、山本山城の阿閉貞征を調略し、寝返らせる。
その後、朝倉家攻めに参加し朝倉家は滅亡する。
続けて小谷城攻めでは、浅井長政とその父・久政を分断する作戦に成功し、久政を自殺に追いこむ。
9月 浅井家を滅亡させた後、一番の活躍をした秀吉が旧浅井領のほぼ全てを与えられる。
一職支配を許され、小谷城を居城とする。
さっそく家臣・国衆へ知行を宛行い、寺社への土地寄進や村の掟の制定に着手する。
天正2年(1574年) 38歳
1月 信長から越前を任された前波が、一揆勢に殺される。
秀吉と丹羽長秀はすぐに出陣し、敦賀城に入る。だが一揆勢の防備が整っているため攻められず。
丹波は帰陣するが、秀吉は敦賀に残り備えを担当。
6月 近江領では、今浜を長浜と改名し、そこに築城を始める。
8月 越前では、一揆との最前線に配置していた堀の重臣である樋口が、勝手に一揆と講和して出奔。
秀吉は追手を差し向けて樋口を討ち取る。この事件によって堀も改易となる。
この事件は、秀吉は樋口を最前線に置いて忠誠心を試したが、樋口は捨て殺しにされると考えて出奔した。
この年の秀吉は、新領土の掌握と越前の押さえ、越前での調略に終始した。彼がこれほど動かなかった時期は他にはない。
(以上は2025年9月20日に作成)