小早川隆景(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
小早川隆景は毛利家の重臣で、毛利元就の息子である。
豊臣秀吉の政権で重用された。
毛利元就が妻の妙玖との間にもうけた3人の息子は、長男の隆元が毛利家を継いだ。
次男の元春は、18歳で吉川家に養子に出た。
三男の隆景は、12歳で小早川家に養子に出た。
ちなみに隆景は、隆元より10歳下、元春より4歳下である。
隆景の入った小早川家は、分家のほうだったが、本家の跡継ぎが盲目の幼子なのを攻め口に、元就は反対する者を殺して強引に隆景を本家の跡継ぎにした。
隆景が23歳の時に、毛利家と陶晴賢とが戦う、「厳島の合戦」があった。
この戦争で隆景は、村上水軍の抱き込みに成功し、勝利に貢献した。
毛利家は、嫡男の隆元が若死し、当主の元就も1571年に75歳で亡くなった。
元就が亡くなると、隆元の子・輝元が11歳で後を継いだ。
吉川元春と小早川隆景が、輝元の後見人となった。
本能寺の変が起きた時、毛利家は織田家の部将・羽柴秀吉と戦っていた。
変の直後に羽柴軍は和睦をして撤収したが、毛利軍はこれを追撃しなかった。
この時、毛利家の家臣たちは「追撃して羽柴秀吉を討ち、そのまま上方に攻めれば天下が取れます」と進言した。
だが元春と隆景は、「秀吉と講和したばかりなのに、相手の不幸に付け込んで約束を破ることはできない。司馬法にも敵の喪中には攻撃を仕掛けないとある」と言ってしりぞけた。
1586年に元春が亡くなると、隆景が毛利家の舵取りを1人で担うことになった。
毛利家・当主の輝元は、坊っちゃん気質で力量に欠けていた。
隆景の輝元に対する教育は厳しく、折檻することもあった。
だから輝元は恨みを抱いたこともあった。
羽柴秀吉は、本能寺の変の時に追撃しなかったことに感謝し、自らの政権において毛利家を厚遇した。
毛利家は、120万石の領地を持つ大々名として、新たな本拠城を広島に築くことにした。大田川のデルタに広島城を築いたのである。
この築城では、黒田官兵衛に協力を依頼した。
完成の2年後、秀吉が朝鮮出兵の指揮をするため九州に向かう途中、広島城を視察した。
秀吉は視察後に、「地勢が悪く、水攻めすれば容易に落とせる城だな」と言った。
これを聞いた輝元は、「黒田官兵衛にだまされた」と怒った。
だが隆景は、「秀吉は毛利に裏切られるのではと不安を抱いている。広島城が弱点を持つのは、秀吉に逆心がないと示すことになり、毛利の繁栄につながる」と説いた。
秀吉は、自分の妻(おね)の兄(木下家定)の息子である秀秋を、毛利輝元の養子にしたいと考えていた。
だが隆景は、秀秋が毛利家の当主になる器ではないと見て、警戒した。
輝元は息子が生まれなかったので、隆景の異母弟(※元就の子)である穂田元清の子・秀元を養子にした。
後になって輝元に息子・秀就が生まれると、秀元は毛利家の後継ぎを辞退して、別に家を立てて長府藩の祖となった。
隆景は、女性に潔癖な人で側室を持たず、息子が生まれなかった。
そこで父・元就の九男で、自分の異母弟にあたる秀包を養子に迎えた。
だか隆景は、毛利家に養子を入れたい秀吉の心を察して、「秀秋を私の養子にもらいたい」と願い出た。
秀吉の喜びようは尋常ではなかった。
1594年11月に隆景は、秀秋を三原城に迎え入れ、毛利一族をあげて歓迎の宴を続けた。輝元が付きっきりで接待し、これを聞いた秀吉を満足させた。
1595年に隆景は引退し、筑前50万石を秀秋に譲った。
秀吉は5万石の隠居料を隆景に与えた。
1597年6月12日に隆景は65歳で亡くなった。
(以上は2025年9月20日に作成)