佐渡攻め 金銀山の強奪(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
1588年に豊臣秀吉は、越後を治める上杉景勝に対し、「佐渡の国人で言うことを聞かない者は成敗せよ」と命じた。
佐渡は、1543年に商人の外山茂右衛門が銀山を掘り始めてから、多くの金銀が採れていた。
それで越後の上杉家も多数の人員を送り込んでいた。
佐渡では本間氏が勢力を持ち、金山や銀山を経営していた。
すでに景勝は1586年に、本間氏に対して「私に仕えろ。言うことを聞かなければ討ち果たす」との、脅しの書状を送っていた。
秀吉の命令を受けた景勝は1588年5月に、「来年の春から夏に佐渡に出兵する」と、佐渡の国人たちに通告した。
1589年6月12日、3千余りの兵を率いて上杉景勝は佐渡に渡海した。
翌13日から戦闘が始まり、上杉軍は次々と城をおとした。
  この佐渡攻めは、上杉家重臣の直江兼続が指揮をとった。
直江兼続は、佐渡の国人で懐柔できる者は味方につけたが、佐渡を平定すると味方についた国人たちも含めて、すべての国人を佐渡から追放した。
上杉家の狙いが、佐渡の金銀山を奪い取ることにあったからだ。
1595年1月17日に豊臣秀吉は、上杉景勝に対して「越後と佐渡の金山をお前に預けて直江兼続を代官にするから、運上金を差し出すように」と命じた。
兼続は1月23日に立岩喜兵衛と志駄修理亮を金山奉行に任命した。
豊臣政権は金山経営の官僚として、直江兼続に期待をかけたのである。
(以上は2025年11月4日に作成)