タイトル秀吉の北条氏攻め、北条氏の滅亡

(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)

1589年の暮れに豊臣秀吉は、関東を治める北条氏直に宣戦布告した。

秀吉は、徳川家康らの大軍を東海から攻め込ませると共に、前田利家や上杉景勝ら北陸の大名たちも北から攻め込ませることにした。

北条氏討伐の命令を受けた越後を治める上杉景勝は、1590年2月に春日山城を出発して、信濃の海津で他の北国勢と合流した。

景勝たちは碓氷(うすい)峠を越えて上野国に入り、3月25日に北条領の松井田城に攻めかかった。

松井田城を守るのは大道寺政繁ら3千人で、そのすさまじい戦闘ぶりに北国勢は兵を退き、持久戦に切りかえた。

北国勢は、松井田城の周辺の城を攻め落として、松井田城を孤立させた。

4月22日に松井田城は落ち、大道寺政繁は降伏した。

松井田城が落ちると、上野国の他の城も降伏していった。

5月15日に松井田城に待機する上杉景勝軍に対し、秀吉は武蔵の鉢形城を攻めるよう命じた。

鉢形城攻めは、徳川軍と浅野長吉軍も加勢したので、3万5千人の大軍で攻め寄せた。

この城は北条氏邦ら3千人が守っていたが、氏邦が先頭を切って戦う闘志を見せたため城の士気は高かった。

激戦となり、北国勢らは攻めあぐねて、6月に入っても苦戦が続いた。

徳川軍の本多忠勝らが増援として駆けつけ、28人で抱え持つ大砲を城内に撃ち込んだ。

さらなる増援として浅野軍と木村軍も到着し、北条方と凄絶な戦いとなった。

6月14日に降伏勧告をのんで開城した北条氏邦は、寺に入って謹慎した。

次に北国勢は、北条氏照と兵2千人が守る、八王子城を包囲した。

6月23日に北国勢は総攻撃をかけ、城代の狩野一庵は討死し、婦女子の多くも自刃して、城は落ちた。

八王子城が落ちると、北条氏の本拠・小田原城にこもる北条氏政らは、7月4日に秀吉の勧告を入れて小田原城を開けて降伏した。

このあと、北条氏政、北条氏照、大道寺政繁、松田憲秀は切腹処分となり、当主の北条氏直は高野山に追放となった。

(以上は2025年11月4日に作成)


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