豊臣秀吉からみの雑学(以下は『功名が辻』司馬遼太郎著から抜粋
2004年6月頃にノートにとったこと
2026年6月3日に作成)
🔵小牧・長久手の戦い
この合戦中に、羽柴軍は徳川軍の奇襲をこころみたが、家康はこれを見破り小牧山から出て奇襲軍を逆襲した。
羽柴軍は大敗したが、敗因は小牧山をしっかり見張ってなかったこと。
羽柴奇襲軍は、大将を羽柴秀次という無能者にした。(秀吉がこれを命じた)
又、副将たちも猪武者ばかりだった。
この奇襲軍は、休憩中に見張りを立てないなど、驕りと油断があった。
小牧・長久手の戦いの時点で、羽柴秀吉の勢力は24国628万石に達していた。
これに対し徳川家康は、5国138万石で、3万4千人の兵力だった。
徳川と同盟して戦った織田信雄は、尾張と伊賀、伊勢の大部分を支配していて100万石、2万5千人の兵力だった。
🔵豊臣政権
羽柴秀吉が関白になった際、諸大夫が関白には必要で、12人の将が任命された。
この時に石田三成も12人に入り、治部少輔に任命された。彼は五奉行にも選ばれた。
寧々(秀吉の妻)もこの時に朝廷から北政所という称号をもらった。
余談になるが、当時は肉づきのいい女性が好まれた。
江戸城は、徳川家康が関東に移封されたときは質素な城で、後の秀忠、家光の時代に巨大な城に改造された。
秀吉の妾だった淀君が生んだ鶴松は、1591年(天正19年)8月5日に3歳で病死した。
直後の8月20日に、秀吉は明国との戦争を宣言した。
司馬遼太郎は、鶴松の死による心の傷が明との戦争にかりたてたと解釈している。
この外征に対し、徳川家康は「関東の治安が不安定だ」と秀吉の側近に言うことで、予備軍入りに成功した。(徳川軍は朝鮮に渡らなかった)
この年の12月28日に、秀吉は秀次に関白職を譲った。
この時から秀吉は「太閤」と呼ばれるようになった。
1593年(文禄2年)8月3日に、淀殿は男子の拾を生んだ。
翌年1月に、秀吉は拾に大坂城を譲るため、新たな居城として伏見城の建設に着手した。
この新城は、戦略上と政治上で意味のないものだったが、この城の建設も明国攻めも諸大名が費用を負担した。
この頃から、浪費ばかりする豊臣政権にうんざりする大名がどんどん出てきた。
伏見城は徳川時代になると破壊され、その跡地に紅桃の木が植えられたことで、城跡を桃山と呼ぶようになった。
織田信長の築いた安土城と、秀吉の築いた伏見城は、豪華で当時の代表的な建築だったため、この時代を『安土桃山時代』と言う。
1595年に豊臣秀次は失脚したが、このとき秀次は京都にいた徳川秀忠を人質に取ろうとした。だが秀忠は伏見に逃げのびた。
秀次が切腹させられた際、彼の妻たちも殺害されたが、無名の女たちではなく、池田勝入斎、菊亭晴季、最上家など、大名クラスの娘ばかりだった。