(『本能寺の変431年目の真実』明智憲三郎著から抜粋)
『惟任退治記』は、本能寺の変の4ヵ月後に羽柴秀吉が、召し抱えていた大村由己に書かせた、短い本である。
本能寺の変の発端から結末までを書いている。
なお「惟任」は、明智光秀が朝廷からもらった名字である。
『惟任退治記』は、光秀を山崎の合戦で倒した秀吉の宣伝書で、最も早く出た本能寺の変の本でもある。
この書物では、本能寺の変が光秀の単独犯行であったとし、謀反の動機は恨みと野望だったと書いた。
光秀の野望の証拠としては、愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌の会で光秀が詠んだ発句(ほっく)、「時は今あめが下しる五月かな」を挙げている。
「時」を「土岐」、「あめが下」を「天下」、「しる」を「統べる」(すべる)と読み替えて、謀反の決意を詠んだと書いている。
ところが愛宕百韻の写本では、「下しる」ではなく、「下なる」と書いているものもある。
写本の多くは、愛宕百韻のあった日を5月24日と書いているが、『惟任退治記』は5月28日と書いている。
信憑性の高い史料である『信長公記』は、光秀は5月28日に「あめが下知る」と詠んだと書いている。
なおこの年(天正10年)は、5月は29日までしかなかった。
愛宕百韻には、明智光秀の他には、連歌師の紹巴ら10名ほどが参加していた。
そこで5月28日と24日の参加者の記録を調べてみたが、24日と28日のどちらが正しいかは分からなかった。
連歌の発句は、「その場の風情(ふぜい)を看取して詠むべき」とされている。
発句に「あめが下」とあるから、雨の天気を看取して詠んだと思われる。
公卿の山科言経(当時、京都にいた)の日記(言経卿記)を見ると、24日は雨、28日は晴れである。
奈良の興福寺・多間院にいた院主・英後の日記『多聞院日記』を見ると、24日は雨が 降り始めで、28日は雨ではない。
三河にいた松平家忠の日記、『家忠日記』も、24日は雨で、28日は雨ではない。
つまり天気から見ると、「あめが下」にふさわしいのは、24日である。
羽柴秀吉は、自分が書かせた『惟任退治記』を、大村由己に命じて親王(天皇の息子)や公卿に何度も読み聞かせたという。
『惟任退治記』は、(主君だった)織田信長を崇める記述は一切なく、夜な夜な信長が美女との楽しみ耽っていたと書いている。
本能寺の変の時も、信長は側にいる女性をことごとく刺し殺したとしている。
だが信憑性の高い『信長公記』では、本能寺の変の時に信長は、「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」と言って、 女たちを逃がしている。
羽柴秀吉は『惟任退治記』で、織田信長が淫乱で残忍な人だったと粉飾した。
さらに明智光秀についても、怨根と野望で謀反したと印象付けた。
この宣伝工作により、自分が織田政権を奪取することを正当化したのである。
補足すると、信長の小姓の森乱丸は、『惟任退治記』では森蘭丸と書いてある。
これは美少年のイメージにして、信長の男色を臭わせたのだろう。
徳川家康が亡くなってから10年も経たずに(徳川幕府になってから)、豊臣秀吉を礼賛する『川角太閤記』と『甫庵太閤記』が出版された。
この2つは、歴史書というよりも、フィクションの物語である。
『川角太閤記』の著者は、秀吉の家臣である田中吉政に仕えた、川角三郎右衛門といわれている。
この書物は、光秀が信長を怨むことになる話を、いくつも書いている。
三月の節句で、大名や公家の面前で面目を失ったこと。
武田家を攻めた際に、上諏訪で信長に折檻されたこと。
徳川家康の饗応を任されたが、準備でミスをして、役から外されて中国の毛利家攻めに出陣するよう命じられたこと。
『甫庵太閤記』の著者は、羽柴秀次や堀尾吉晴に仕えた、小瀬甫庵である。
この書物は、『惟任退治記』をネタ本にし、色々な追記をした。
山崎の合戦では、天王山の攻防が勝敗を分けたことや、小栗栖(おぐるす)の竹藪で明智光秀が落ち武者狩りにあい殺されたこと、を書いている。
だが、本能寺の変の当時の、公家の日記では、光秀は山科(やましな)や醍醐(だいご)の辺りで殺されたと書いてある。
元禄6年(1693年)には成立していたとされる、『明智軍記』にも、明智光秀が織田信長を怨んだ話がいくつも出てくる。
光秀が稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を引き抜き、信長が怒って光秀を殴ったこと。
家康への饗応が華美すぎたため、信長が森蘭丸らに扇で光秀の頭を打たせたこと。
信長が光秀に、中国に出陣して秀吉の指揮下に入れと命じたこと。
毛利領の出雲と石見を切り取りしだいに与える代わりに、光秀の領地である丹波と近江の一部を召し上げること。
『明智軍記』は、作者は不明で、徳川幕府が書かせたとの話もある。
この書物には光秀の辞世の句があり、そこに「五十五年ノ夢」とあるので、光秀の享年は55歳というのが定説になってしまった。
しかし、徳川家光の宿老だった松平忠明が書いたとされる『当代記」には、光秀の享年は67歳とある。
史料の信憑性を考えると、67歳が正しいと思われる。
『明智軍記』は、光秀が美濃の明智城主の家系で、明智城が落城あとは諸国を放浪して、朝倉義景に仕えたとする。
さらに織田信長の正妻・濃姫は、光秀の従兄妹で、そのために光秀は信長に召し抱えられたとする。
だがこの書物は、嘘の記述が多い。
延享3年(1746年)に細川家が編纂した『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)は、細川家(熊本藩)の正史である。
この書物でも、光秀は美濃の土岐氏の人で、明智城が落城した後に朝倉義景に仕えたとしている。
さらに濃姫は光秀の従兄妹としている。
また、足利義昭が越前(朝倉義景の領土)に居た時に、その家臣の細川藤孝は、光秀から信長への幹族の話を持ちかけられ、永禄11年(1568年)6月に藤孝は光秀の斡旋で信長に会ったとする。
ところが実際は、信長は永禄2年に上洛した時に、足利義輝・将軍の側近だった細川藤孝にも会っている。
つまり光秀が仲介する必要などない。
『綿考輯録』は、『明智軍記』を引用しつつ手を加えて書いたと述べている。
細川家は、光秀と藤孝が深い関係だったことを隠すために、このような嘘を書いたと考えられる。
(2024年5月22日に作成)