(『本能寺の変431年目の真実』明智憲三郎著から抜粋)
『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)に収められた、『永禄六年諸役人附』という、足利幕府の役人名簿がある。
この名簿の足軽衆に、「明智」の名がある。
永禄6年の時点では、足利将軍は13代目の義輝なので、「光秀は義輝に仕えていた」とする学者もいる。
しかしこの名簿は、後半部分が継ぎ足されており、そこに明智の名がある。
ちなみに 前半部分に書かれた人のうち14人は、義輝が襲われ殺された時に共に討ち死している。
名簿の前半部分と後半部分の両方に、細川藤孝の名が、御供衆としてある。
藤孝は、14代将軍・義栄には仕えなかったから、後半部分は15代将軍・義昭に仕えた役人と分かる。
この名簿にある明智を、光秀だと断定できるだろうか。
本圀寺(ほんこくじ)の戦いは、永禄12年(1569年)1月4日に、三好三人衆が足利義昭・将軍を襲撃したものだ。
『信長公記』では、義昭側として本圀寺に立てこもった人として、明智十兵衛(光秀)ら13名が出てくる。
この13名の1人は、上述の『永禄六年諸役人附』で足軽衆に書かれた、野村越中守である。
『言経卿記』は、この戦いについて、「武家(幕府)の足軽衆以下が二十余人討死」と書いている。
以上のことから、明智光秀は幕府(足利義昭)の足軽だった蓋然性は高い。
宣教師のルイス・フロイスは、『一五八二年・日本年報追加」において、「明智光秀は賤しき歩卒であった」と書いている。
これは、「足軽だった」と言いかえてもいいだろう。
『多聞院日記』の天正10年6月17日には、「光秀は細川藤孝の中間だったのを、信長に引き立てられた」とある。
(2024年5月22日に作成)