(以下は『週刊文春 2023年11月30日号』清水克行の記事から抜粋)
京都大学のすぐ近くに、吉田神社がある。
ここは平安時代に創建されたとされるが、室町時代に神主家から吉田兼倶(かねとも)という人が出た。
兼倶は、「吉田神道」という宗教を創始した。
吉田兼倶は、自分の宗教を広めるため、様々な古文書を捏造した。
数々の策謀が実り、文明12年(1480年)から翌年にかけて後土御門天皇に講義する機会を得て、名声を得た。
兼倶は、吉田家のブランド力を上げるため、歌人の藤原定家や鴨長明は吉田家の弟子であったと嘘をつき、藤原定家が吉田家に提出したという誓約書を偽造した。
さらに日蓮の教えの一部は吉田家から授けられた、との嘘をついた。
他にも兼好法師を吉田家の系図に組み入れて、先祖の1人だと捏造した。
この捏造のせいで、吉田兼好という間違った名が広まり、現在も信じている人は多い。
吉田兼倶は、文明16年に吉田山に新たな社殿をつくり、社格は伊勢神宮をも上回ると説いた。
社殿の建設費は、当時の権力者・日野富子から一千貫文(現在の1億円)を出させるのに成功している。
兼倶は、伊勢神宮から神器が吉田神社に飛来したと天皇に説き、これを天皇が信じて「飛来したものは本物である」とお墨付きを与えた。
伊勢神宮は激怒して、吉田神社の破却と兼倶の逮捕を訴えたが、通らなかった。
(以下は『週刊文春 2023年12月7日号』清水克行の記事から抜粋)
吉田兼倶が創始した吉田神道(吉田神社)は、兼俱の死後も信者を増やした。
兼倶の孫・兼右(かねみぎ)、曾孫の兼見(かねみ)の残した日記を見ると、信者からの相談や依頼が記されている。
この日記から、吉田神社の受けた相談(仕事ぶり、商売ぶり)が分かる。
まず、こういう相談だ。
「10年前に円阿弥という男を殺しました。その祟りに苦しめられています。」
吉田神社はお札を送り、一貫二百文(現在の12万円)を受け取った。
次はこの相談だ。
「80年以上前ですが、嶋野という男の悪行がひどいので、村の皆で殺しました。
その時、彼の妻と男児5人も殺しました。
最近おこる不吉なことはその祟りでしょうか。」
吉田神社は祈禱料として、24万円を受け取った。
(※真に人を救うものではない、庶民の迷信につけこんだあこぎな商売のやり方で、現代ならば統一教会のような存在だろう。
だが神社とは、本質をむき出すとそんなものかもしれない。
当時の人々の荒っぽさ、連帯責任で家族や子供を殺してしまう生き様にも驚く。)
鎌倉時代と室町時代の人々は、神仏に「起請文」(きしょうもん)という誓約書を出すのをよく行った。
誓約したことを破ると、大変な罰が下るとされていた。
そこで吉田神社には、こんな依頼もあった。
「禁酒を起請文で誓ったのですが、会合で酒を飲んでしまいました。
その後、精神が不安定になり悩んでいます。
起請返しをお願いします。」
起請文の誓約は、お祓いで無かったことにできたのである。
吉田神社は、この「起請返し」も受注していた。
上の禁酒破りの祈禱料(起請返し)は12万円だった。
吉田神社は、離婚を起請文に書いた者の起請返しも受注している。
(以上は2025年7月11日に作成。7月28日に加筆)