タイトル斎藤利三、明智秀満、細川藤孝、三淵藤英

(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)

🔵斎藤利三

天文3年(1534年)生まれか。

父は斎藤伊豆守利賢と伝わる。母は明智光秀の妹と伝わる。

利三の娘で徳川家光の乳母になった春日局のことも書いている『柳営婦女伝系』には、「明智光秀は利三の伯父」とある。

斎藤利三は、元は美濃を支配する斎藤義龍に仕えたと言われ、その後に稲葉一鉄に仕えて、一鉄の姪を妻にした。

後に光秀が利三を引き抜いて家臣にしたのだが、この件で光秀は主君の織田信長にきつく怒られ、本能寺の変の一因になったとの説もある。

本能寺の変では、利三はこの謀反の中心人物だったようで、山科言経の日記では「斎藤蔵助は謀叛随一なり」とある。

勧修寺晴豊も「彼は信長打ちの談合の衆(一員)なり」と書いている。

山崎の合戦で明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、利三は逃走したが近江の堅田で捕まり、6月17日に斬首され首は光秀と共に本能寺に晒された。

🔵明智秀満

生年は不明。
『明智軍記』は明智秀満の名を、明智左馬助光春と書いているが、信用できない。

現存する文書には、明智弥平次秀満と署名(花押)している。

秀満は、明智光秀の甥とも従兄弟ともいわれるが詳細は不明。

はじめは三宅弥平次と称し、天正8、9年頃に光秀の娘をめとり明智姓になった。

光秀が丹波を平定し、主君・織田信長から領地として認められると、秀満は同国の福知山城主となった。

本能寺の変では、先鋒として活躍した。
その後、6月5日に光秀に従って安土城に入った。

光秀は7日に勅使と会談し、翌8日に京都に向かったが、秀満は安土城の守備を任された。

6月13日に山崎の合戦で光秀が敗れると、14日に安土城を捨てて坂本城に入った。
その際、火を放って安土城を焼いた。

同15日に羽柴秀吉の軍勢が坂本城を囲むと、秀満は光秀の妻子と自分の妻を刺し殺し、火を放って自害した。

🔵細川藤孝

天文3年(1534年)に生まれ、慶長15年(1610年)に亡くなった。享年77歳。

剃髪後は幽斎玄旨と称す。

父は幕臣の三淵晴員で、母は公家の娘。
1539年に和泉国守護の細川元常の養子となった。

将軍・足利義晴の隠し子という説もある。

天文15年に、足利義晴の嫡子・義藤(後の義輝)から諱をもらい、藤孝と名乗った。

1565年に将軍・足利義輝が暗殺されると、その弟(義昭)を近江国・甲賀の和田惟政の居館に逃がした。

1565~6年に細川藤孝や和田惟政は、義昭を奉じて上洛するよう尾張の織田信長に何度も依頼した。

だが美濃の斎藤龍興が協力せず、この上洛計画は頓挫し、義昭らは越前の朝倉義景を頼って行った。

1567年に織田信長は美濃を征服し、68年に足利義昭を迎えて9月に上洛を果たした。

義昭が上洛して足利将軍に就任した際、藤孝と惟政は「公方(義昭)の両大将」と呼ばれた。

その後、信長と義昭が抗争を始めると、藤孝は信長に近づき、義昭らの情報を信長に伝えるようになった。

1573年に信長は義昭を追放し、足利幕府は終わった。

細川藤孝は今までの功により山城国の西部を信長から与えられたが、この頃に姓を長岡に改めた。

以後は明智光秀の与力となって働いた。

天正8年(1580年)8月に藤孝は、それまでの功績により信長から丹後国をもらった。

本能寺の変では、上司である明智光秀からの誘いを断わり、息子・忠興と共に髪を切り、幽斎玄旨と称した。

そして山崎の合戦では中立を守った。

🔵三淵藤英

生年は不明。天正2年7月6日に死去。

父は幕臣の三淵晴員、母の出自は不明。上記した細川藤孝の長兄といわれる。

将軍・足利義輝の側近となり、義輝が暗殺されると足利義昭に仕えた。

義昭が上洛を果たして将軍になると、奉公衆として山城国・伏見城の城主となる。

1573年に義昭と織田信長が戦争を始めると、7月に義昭が去った将軍御所に籠城した。

柴田勝家の勧めで開城し、伏見に戻った。

翌年5月、藤英は信長の命令で明智光秀に預けられ、坂本城で自害させられた。

(以上は2025年10月20日に作成)


BACK【日本史の勉強 本能寺の変】 目次に戻る

目次【日本史の勉強】 トップページに行く

home【サイトのトップページ】に行く