日本でのCIAの秘密工作「チャイナ・ミッション」

(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)

神奈川県の葉山は、戦前は華族らの別荘が並んでいた。

日本が敗戦して米軍が占領すると、米軍は幹部の宿舎としてこれらの住居を接収した。

1950年代に、その中のいくつかはCIAの大物が住んでいた。

CIA幹部のデズモンド・フィッツジェラルドも、葉山の住人の1人だった。

「コックや家政婦、運転手、庭師らがいて、将軍のような生活だった。年間200ドル以下で雇えた。」と関係者は証言する。

1ドル=360円の時代だ。

デズモンド・フィッツジェラルドの部下に、CIA局員のラルフ・マクギーヒーがいた。

1953年から2年間、横須賀にあったCIA基地に居た。

ラルフは、ベトナム戦争中にCIAに失望し、退職した後はCIA研究用のデータベースを開設して研究者らに提供している。

彼は言う。
「日本勤務の時期は、亡命中国人を横須賀や厚木や茅ヶ崎のCIA施設で訓練するのが任務だった」

デズモンド・フィッツジェラルドをリーダーに行ったこの工作は、『チャイナ・ミッション』と呼ばれた。

香港に脱出してきた中国人から使えそうな者を選び、訓練でスパイにして中国に送り返す工作だ。

GHQの日本占領中、GHQの防諜部隊(CIC)のキャノン機関は、同じ様な工作をしていた。

CIAは、それを引き継いだのである。

デズモンド・フィッツジェラルドは、ウォール街の弁護士だったが、シンクタンク「外交関係評議会」でCIA幹部のフランク・ウィズナーと知り合い、CIAに就職した。

フランク・ウィズナーは、同じくウォール街の弁護士だったが、OSS(CIAの前身)に入り、国務省を経て1948年の夏にCIAの工作機関であるOPC(政策調整部)の初代部長となった。

フランクは、名家の出で富豪である。

OPC設置の基礎となったのは、48年6月18日にハリー・トルーマン大統領が署名したNSC(国家安全保障会議)の10/2号文書だ。

この文書は、「アメリカ政府の外交は、秘密工作によって補強されねばならない」とし、秘密工作をCIAが行うことになった。

そして、CIA、国務省、国防総省の間で意見が対立したら、NSCが調整し決定することになった。

秘密工作については、エスタブリッシュメントのシンクタンクである「外交関係評議会」でも、しばしば論議されたいた。

そこでフランク・ウィズナーとデズモンド・フィッツジェラルドは知り合ったのだ。

1950年6月に朝鮮戦争が始まると、デズモンドはフランクに頼まれてCIAに入り、極東担当官になった。

OPCの要員は、48年には302人だったが、朝鮮戦争が始まると急増し、51年には2812人となった。

CIAの海外支局も、その間に7→47と7倍になっている。

1951年10月23日に、アメリカ政府のNSCで、NSC10/5号文書が承認された。

この中で「秘密工作の早期拡大は国家的な責任」とし、具体的に次の3つの工作を承認した。

①ソ連の権力構造に最大限の圧力を加える

②自由主義世界の人々と国家が、アメリカ志向を強めるよう工作する

③戦略的地域での地下活動やゲリラ活動を最大限に展開する

「戦略的地域」とは、ソ連や中国を指す。

こうして、日本でのCIAの秘密工作も本格化した。

在日CIAは当初、OSO(特殊工作部、これは東京系)とOPC(政策調整部、これは横須賀系)が、別々の工作をしていた。

OSOは要員が60~70人で、占領中にG2(GHQの参謀第2部)と協力して、ソ連スパイの摘発に当たっていた。

OPCは50~100人で、中国大陸でのゲリラ活動を支援する工作をした。

OPCは、東アジアでは次のような工作も展開した。

① 蒋介石(台湾総統)に近いクレア・シェンノート陸軍将軍から、航空会社シビル・エア・トランスポート(CAT)を買収し、工作に利用した。

② CATは、宣伝ビラを中国本土で空中から撒いた。

③ 台湾にウエスタン・エンタープライズという偽装会社を設立。

④ 300人以上の工作員を使って、8500人の亡命中国人らにゲリラ訓練をした。

⑤ 中国では18回のゲリラ攻撃、11回の破壊工作を行った。

デズモンド・フィッツジェラルドは、1950年末にOPC極東部のナンバー2となり、54年秋から1年間、横須賀の米軍基地内で「チャイナ・ミッション」を指揮した。

1年後、彼は「チャイナ・ミッション」をフィリピンのスービック米海軍基地に移し、自分も移動した。

結果的に「チャイナ・ミッション」は大失敗だった。

CIAの初代日本課長であるカール・スウィフトは言う。

「フランク・ウィズナーらは、中国大陸に50万人もの反共ゲリラがいると信じていたが、そんなものは存在しなかった。」

OPCは1952年には、4大国・首脳会議にスターリンが出席するところを乗用車に爆弾を仕掛けて暗殺する、という計画も立てている。

1952年当時、神奈川県・厚木にある米軍基地内には、CIAの大規模な施設があった。

そこでは日系二世のジョー・キヨナガも働いていた。

10月31日にそこの地下の講堂で、CIA局員たちのハロウィン・パーティが開かれた。

パーティには日本に来たばかりの新人、ジョン・ダウニーとリチャード・フェクトーも居た。

1ヵ月後、ジョン・ダウニーとリチャード・フェクトーは中国に潜入したが、中国軍に捕まった。

ジョンは終身刑、リチャードは禁固20年となった。

ジョンは服役中、同房の米軍将校が釈放される際に「奴らはサム・マレーを知っているよ」との伝言を頼んだ。

サム・マレーは、日本共産党に対するCIAの秘密工作を意味する暗号で、伝言がジョー・キヨナガに伝えられるとすぐにこの工作は縮小された。

結局、ジョン・ダウニーは20年、リチャード・フェクトーは19年の服役をした後に、釈放された。

これが有名な『ダウニー=フェクトー事件』である。

ジョー・キヨナガは、CIAのサンパウロ、パナマの支局長などをし、1977年に58歳で病死した。

ジョー・キヨナガらが厚木基地で取り組んだのは、亡命中国人にゲリラ訓練をして中国に送り込むことだったが、この工作には日本人も関与していた。

それがゾルゲ事件に連座した川合貞吉だ。

貞吉は、1941年にゾルゲ事件で捕まり懲役10年の判決を受けたが、戦後になるとGHQのCICから呼び出しを受け、キャノン機関が置かれていた旧岩崎邸に軟禁された。

取調べの後、貞吉はCICに雇われたらしい。

元日本共産党幹部の伊藤律は、1982年の書簡でこう述べている。

「川合君は、厚木にあった対中国の特務養成機関で、講師を週3回勤めていた。」

別の書簡でも「中国の獄中で、厚木で養成された特務員が全部供述したと、人民日報に載っているのを見た」と記している。

伊藤律は、日本共産党において一時は徳田球一・書記長に次ぐ実力者だったが、党内対立とゾルゲ事件などによりスパイとして除名され、1953年以後は中国で投獄された。

80年に帰国し、9年後に病死した。

1950年代には、元日航機長らが厚木基地でB17の飛行訓練を受け、5年にわたって中ソへスパイを輸送していた。

産経新聞の高山正之がこの事実を掘り起こしている。

筆者は情報公開法に基づき、「チャイナ・ミッション」の文書公開を求めたが、CIAは拒否した。

今もなお極秘指定を解除していないのだ。

1951~53年の間に、CIAは212人の中国人スパイを中国本土にパラシュート降下で送り込んだが、101人が殺され、101人が捕まったと伝えられている。

1950年6月に朝鮮戦争が始まると、CIAは伝説的なスパイであるハンス・トフテを日本に派遣した。

ハンスは日本で、反共のプロパガンダ映画をプロディースした。

ハンス・トフテは中国に10年住んだ経験があり、中国語など6ヵ国語を操った。

彼は、『ダウニー=フェクトー事件』に関与したジョー・キヨナガたちのボスだった。

ハンスと部下たちは、次の工作をした。


朝鮮戦争で撃墜された米軍機のパイロットを救出する作戦(E&E作戦)


北朝鮮を逃れてきた難民を尋問し、有能な者にゲリラ訓練して、北朝鮮に送り返す工作


中国向けの医薬品を積んだノルウェー船籍の貨物船を、公海上で襲い、医薬品を奪った「TP・ストール作戦」

だがこうした工作は、目立った成果を挙げられず、1956年の夏に終了した。

その後にハンス・トフテは、汚職をして懲戒免職になっている。

朝鮮戦争においてCIAは無能だったが、工作部門の人員は増え続けた。

1953年にはOSOは1200人、OPCは6千人に増えた。

分析部門も3300人増えたから、総勢は1万人の大台を超えた。

なお、1999年には1.7万人となっている。

1952年8月にヴェデル・スミスCIA長官は、OSOとOPCを合体させて、「計画部門(後に工作部門と改称)」と名前を改めた。

1952年に、CIA東京支局長は初代のポール・ブルームから、2代目の退役海軍中将ハーベイ・オバレシュに替わった。

ハーベイの管轄領域は、日本だけでなく北東アジア全域と定められた。

同様にヴェデル・スミス長官は、欧州の工作を統括する新しいボン支局長に、自分の戦友ルシアン・トラスコット将軍を任命した。

1953年にアレン・ダレスがCIA長官になると、秘密工作は世界各地に拡大していった。

1955年の10月18日から11月3日まで東京で、12月1~5日には大阪で、中国の見本市が開かれた。

開会式で高崎達之助・経済企画庁長官は、「古い朋友、恋人に会うような喜びだ」と祝辞を述べた。

達之助は、日中間のLT貿易の日本側代表だった。

見本市には、美術品、伝統品、農産物や工業製品が並んだ。

当時の日中には国交がなく、日本人には物珍しくて連日の大賑わいとなった。

東京で67万人、大阪では123万人の入場者となった。

だがこの市は、各種の妨害に悩まされた。

「このビラを持参した人にはビールと中華料理を無料で提供します」という偽のビラも、ヘリコプターで撒かれた。

このビラ工作を仕掛けたのは、CIA局員で東京駐在だったハワード・ハントだ。

(※ハワード・ハントは、後にケネディ暗殺やウォーターゲート事件に関与している)

CIAはこの見本市で、中国の工業技術を分析すると同時に、ビラを撒いて日中間を険悪にしようとした。

上記のビラを撒くことで、押し掛けた日本人たちが「ビールも料理も出ない」と怒るように仕向けたのだ。

実際のところは、ビラは会場の場所を間違えていて、あまり効果がなかった。

アメリカは、日中の貿易拡大を強く警戒していた。

1955年4月9日のNSCでは、NSC5516/1文書を決定したが、こうある。

「日本と共産圏との関係の緊密化は、最終的にアメリカとの深刻な摩擦を起こす。

日本は、共産圏との接触と貿易拡大で、国際的な利益が増すと確信している。」

(※この時の日本は、対米自立路線の鳩山一郎・政権である)

(2020年5月27日に作成)


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