(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)
1958年1月29日に、インドネシアのスカルノ大統領が来日した。
羽田空港に岸信介・首相や藤山愛一郎・外相らが出迎える、異例の大歓迎だった。
9日前に日本とインドネシアは、平和条約と賠償協定に調印したばかりだった。
日本は、12年間にわたり2億2300万ドル(当時の為替レートで803億円)の賠償を支払い、20年間にわたり4億ドル(1440億円)の借款を供与することになった。
岸信介は2月14日に、来日中のスカルノを赤坂の料亭に招いた。
そこには木下商店の木下茂・社長が同席した。
茂は、信介が商工次官だった頃に鉄鋼統制会の理事で、「岸君」と呼べる間柄の政商である。
木下商店は、『賠償ビジネス』に深く食い込み、賠償協定に従ってインドネシアに供与する事になった船10隻(29億円)のうち9隻の契約を、あらかじめ得ていた。
この汚職は国会でも取り上げられ、大きな騒ぎになった。
この賠償ビジネスでは、スカルノに密使がいた。
鄒梓模という華僑で、「賠償問題の処理は、スカルノ、岸信介、木下茂、私という4人の共同仕事でやった」と回想録に記している。
この汚職で信介は、「私腹を肥やした」と批判された。
信介をアメリカ政財界に紹介した、元ニューズウィーク誌の外信部長であるハリー・カーンは、「岸はインドネシアでも韓国でも、カネ(利権)をつくるのが上手かった」と述べている。
スカルノの日本滞在は25日ほどの予定だったが、2月15日に突然に帰国した。
これはインドネシア国内が危機的な局面に陥ったからだ。
スマトラ島では反共勢力が革命政府を樹立、スラウェシ島でもサムアル中佐が独立政権を発足させた。
サムアル中佐と北京駐在武官のワロウ大佐は、東京まで来てスカルノに次の要求をした。
①共産党系の分子を政府から排除せよ ②汚職を追放せよ
実は、このワロウらの動きは、CIAが背後に居た。
1958年2月6日のホワイトハウスで行われたNSC(国家安全保障会議)で、アレン・ダレスCIA長官は報告している。
「反乱勢力の代表が東京で、スカルノと接触した。
この会合でスカルノは涙を流したようだ。
しかしスカルノはジャカルタに電報を送り、政策を変えないよう指示した。」
アレン・ダレスの報告を見ると、ワロウとスカルノの会談内容を知り、ジャカルタへの打電も傍受していた事がうかがえる。
スカルノは、反乱の背後にアメリカがいると気付いていて、密使の鄒梓模に命じて、岸信介からアメリカに次の事を伝えてもらうよう指示した。
「アメリカはインドネシアの内政に干渉するな」
「スカルノはアメリカと友好関係を望んでいるし、共産主義者ではない」
信介は、マッカーサー2世・駐日大使を通じて、これを伝えた。
5月の中頃になって、岸信介はアメリカ側の回答を、スカルノに伝えた。
「アメリカ政府は、ハワード・ジョーンズ(駐インドネシアのアメリカ大使)に、スカルノ大統領との接触をするよう指示した。
今後は、岸首相を通じて連絡する必要はない。」
つまり、信介の調停は無用という事である。
スカルノは、インドネシア国民党を結成し、同国が日本に占領される中、独立運動を進めた人物である。
日本が1945年8月に降伏すると、インドネシアの独立を宣言し、オランダとの独立戦争を戦った。
アメリカのアイゼンハワー政権は、スカルノを中ソ寄りだと見て、打倒することを決めた。
1955年5月12日のNSCで、アイゼンハワー大統領はNSC5518号文書を承認した。
これにより、スカルノ打倒の秘密工作が実行される事になった。
55年9月29日に、インドネシアでは独立後の第1回・総選挙が行われた。
CIAは100万ドルを投じて介入し、反スカルノ勢力を支援した。
しかし選挙の結果は、スカルノの国民党らが勝ち、4大政党制が確立された。
アメリカは、共産党が16%もの票をとった事に神経をとがらせた。
アメリカ政府は秘密工作を続けて、57年春までにスマトラ島とスラウェシ島で反スカルノ勢力を生み出した。
57年8月1日に、ホワイトハウスはNSCでインドネシア特別グループを結成した。
このグループは11月23日に、「スマトラとスラウェシの反共勢力を強化するため、あらゆる秘密手段を行使する」と決定した。
そしてCIAの秘密資金から84.3万ドル(当時の3億円強)が充てられる事になった。
この秘密工作は、「ハイキング作戦」と命名されたが、中心になったのはジョン・フォスター・ダレス国務長官とアレン・ダレスCIA長官だ。
工作に異を唱えたジョン・アリソン駐インドネシア大使は、更迭された。
ジョン・アリソンは、53~57年に駐日大使だった人物だ。
1958年1月31日(スカルノが来日して3日目)に、ダレスCIA長官は、アイゼンハワー大統領らに宛てたメモで報告している。
「パダン・グループが2月5日ごろ、中央政府に最後通告を出すと思う。パダン・グループが臨時政府を樹立するチャンスはある。」
パダン・グループとは、スマトラ島のパダンにいる反スカルノ勢力のことで、サムアル中佐らが指導者である。
このシナリオ通りにサムアル中佐らは動いた。
ハイキング作戦の総額は700万ドル(当時の25億円)に上り、次のことが進められた。
① U-2偵察機でインドネシアを偵察
② フィリピンに米軍基地を設置
③ 反乱軍に軍用機を含む武器を供給
④ CIA職員らをスマトラとスラウェシに派遣
⑤ CIAの心理作戦グループは、スカルノに似た俳優とKGBスパイが登場するピンク映画を製作
⑥ スカルノの暗殺も検討
1958年5月18日に、フィリピンのクラーク米軍基地を飛び立ったB26が、インドネシア軍に撃墜された。
B26はその前に、インドネシアの教会を誤爆し、多数の信者を殺していた。
撃墜された機の操縦をしていたのは、CIAのアレン・ポープで、身元が割れてCIAの秘密工作がバレた。
するとアレン・ダレスCIA長官は一言、「インドネシアから撤収」と命じた。
潜入していたCIA職員らは、慌てて潜水艦で撤収した。
CIAが育てたインドネシアの反乱軍は、61年以降に順次投降した。
CIA文書は、「工作は何の成功も収めなかった」と明記している。
アメリカはスカルノ政権の転覆に失敗すると、手の平を返してスカルノ懐柔策に出た。
アイゼンハワー政権はインドネシアに3.7万トンのコメを援助し、100万ドルの武器供与もした。
アレン・ポープは、撃墜事件から4年後に釈放された。
スカルノは反政府勢力を駆逐した後、独裁色を強め、女色に溺れていった。
59年には日本企業の紹介で知った日本人女性のデビを、第3夫人に迎えている。
インドネシアでは1965年にクーデター未遂の9・30事件があり、スカルノは指導力を低下させて2年後に大統領を解任された。
9・30事件についても、CIAが背後にいたとする声もある。
(2020年5月28日に作成)