(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)
日本の厚木・米軍基地には、U-2偵察機が配備されていたが、日本国民はそれを1度だけ目の当たりにした事がある。
1959年9月24日に、神奈川県の藤沢飛行場に燃料切れで不時着したのだ。
この時は、藤沢飛行場はグライダー・クラブの会員たちが練習中だったが、U-2が現われて、400平方mのイモ畑と自転車4台を破壊しながら、飛行場に不時着した。
現場には20~30人の日本人が居たが、パイロットは身振りで「近寄るな」と指示した。
2~3分後に米軍のヘリコプターが到着し、見物人たちに写真撮影を禁じた。
ちょうどこの時期は、日米安保条約の改定の交渉中で、国会では質問が相次いだ。
社会党の飛鳥田一雄が「Uー2は何の標識も付けてなかったが、国際法違反だ」と質問した。
これに対し岸信介・首相は、「あれはNASAに所属する気象観測用の飛行機である」を嘘をついた。
「NASAの気象観測機」と答弁するのは、日米政府間で了解ずみだった。
信介は、アメリカからの極秘報告でスパイ機だと知っていた。
同年11月26日には、外務省がリポートをまとめているが、「日本の管制レーダーはU-2らしき機影を時々キャッチしているが、これは記録に留めぬ日米の了解がある由」と書いている。
自民党政権は、U-2に幅広い便宜を与えていた。
航空自衛隊は、U-2の動向を把握していた。
「参考情報」として、「日本で視認されたのは1957年4月15日であるので、多分それよりも少し早く日本に来たと思われる。U-2は数機以上が厚木にあり、ソ連と中国を写真偵察している」と報告している。
1960年5月1日に、U-2はソ連領土を偵察中に、墜落した。
パイロットは、フランシス・ゲーリー・パワーズで、パキスタンにあるCIAの秘密基地から出発していた。
フランシスはパラシュートで脱出して生き延び、ソ連の刑務所に入れられた。
ソ連のSA2地対空ミサイルがU-2に命中していたら、フランシスの命は無かったはずだ。
従って墜落の原因は、①機体近くでSA2が爆発し、その衝撃でU-2は操作不能になった、②U-2の故障、のどちらかと見られている。
このU-2は、機体番号は360だったが、フランシス・パワーズは自著でこう記している。
「360号機は、日本のグライダークラブの滑走路に不時着した事があり、カリフォルニア州バーバンクのロッキード社の工場で修理を受けた」
つまり、藤沢飛行場に不時着したU-2だったのだ。
この事件により、60年5月17日に開かれる予定だった米ソの首脳会談は、お流れとなってしまった。
この事件は、日米安保条約の改定の批准を審議する日本の国会にも影響を与え、国会審議が荒れた。
(2020年5月28&31日に作成)