1954年12月に鳩山一郎が首相になる
米政府は鳩山政権を危険視し秘密工作を始める

(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)

1954年9月9日にジョン・アリソン駐日大使は、ジョン・フォスター・ダレス国務長官に宛ててメモを送り、対日政策の転換を提案した。

「今後は対日政策の重点を、防衛力の強化から、経済および治安強化に変化させることが必要だ」

これは、吉田茂・首相が目指している方向だった。

当時の日本は、知識人の間では米ソのどちらとも距離をとる「中立主義」が主流だった。

「この状況下では、防衛力の強化を求めれば反米が強まる」と米政府は考え、54年10月27日のNSC(国家安全保障会議)でジョン・アリソンの提案は新政策となった。

国務長官代行(次官)だったハーバート・フーバー2世は、在日大使館に宛てた秘密電報でこう述べている。

「吉田茂はマスコミには不人気だが、敵対者(敵対勢力)を分裂させる能力がある。

吉田の後任候補は、鳩山一郎が最も可能性がある。

鳩山の政策は、インフレ主義者の石橋湛山によって実行されるが、それは吉田政策の継続ではなくアメリカの国益にならない。

緒方竹虎にも首相の可能性があり、アメリカの立場から見て最も望ましいが、首相としての力があるか疑わしい。

池田勇人は同様に良いが、彼のチャンスはさらに低い。

岸信介や重光葵は望ましくないと思われる。」

ハーバートはこの秘密電報で、「望ましい後継者にうまく吉田茂が引き継げるよう、吉田を支援してはどうか」と提案した。

吉田茂は、ジョン・ダワー(MIT教授)が「日本駐在のアメリカ代理人」と評するほどに、アメリカ寄りの政治家だ。

この提案に対しジョン・アリソン駐日大使は、「私の見方では、介入は危険であり、成功の保証がありません」と返事した。

1954年12月7日に、不祥事と不人気から吉田茂・内閣は総辞職した。

9日に、国会で新たな首相を選ぶ投票が行われた。

そして左右の社会党から支持を得た鳩山一郎・民主党総裁が、緒方竹虎・自由党総裁を破り、首相に選ばれた。

鳩山一郎は、1915年に衆院議員に初当選し、46年には自由党の党首として総選挙で勝ち首相の座を目前にしたが、公職追放となった。

51年8月に公職追放令が解除されて、52年に衆院議員に再び当選した。

一郎は、右翼の児玉誉士夫から多額の献金を受けていたが、国民は知らず一郎を清潔な政治家と見ていた。

鳩山一郎は、アメリカとのコネ作りにも努力し、フリーメイソンに加入していた。

フリーメイソンの日本支部の本には、一郎が首相就任後に第3級の地位を授与された際の写真が載っている。

『鳩山一郎・薫日記』からも、フリーメイソン入りした事実が確認できる。

1950年7月6日に「GMに申す申請書かく」とあり、51年3月20日には「メーソニックテンプルに行き、ロベスター氏と語る。共に食事を為し9時すぎに帰宅」とある。

GMとはグランド・マスター(フリーメイソンの大本部長)のことで、メーソニックテンプルとは支部の集会所のことだ。

フリーメイソンは、1950年から日本人の参加を認めた。

日本人の第1号は、佐藤尚武・参院議長や植原悦二郎・元国務相ら5人の国会議員で、1月6日に行われた入会式にはダグラス・マッカーサーも出席した。

当時は、一部の日本人の間で「フリーメイソンに入れば公職追放から逃れられる」との噂があり、各界の名士が加入した。

アメリカ政府は、鳩山一郎・内閣を危険視した。

それは、①共産圏との貿易の再開、②インフレ政策の採用、が予想されたからだ。

実際に鳩山政権は、インフレ主義の石橋湛山を通産相に起用し、中ソとの貿易再開を掲げた。

鳩山一郎が首相に指名された54年12月9日、正にこの日に、アメリカのホワイトハウスではドワイト・アイゼンハワー大統領らが出席してNSC(国家安全保障会議)が開かれた。

会議ではアレン・ダレスCIA長官が口火を切った。

「鳩山は社会党の支持を集め、来年3月までに総選挙を行うと公約した。

その総選挙では、社会党が十分な数をとり、憲法改定に必要な3分の2の議席の獲得が(改憲派には)不可能となろう。

鳩山は親米だが、中ソとの貿易拡大も目指している。」

これを受けてドワイト・アイゼンハワー大統領は、「日本から中国への輸出が進むと、中国にどんな影響があるのかね?民主主義の浸透にならないか?」と質問した。

ここでの民主主義の浸透とは、プロパガンダを含めた工作を指している。

アレン・ダレスは「吉田茂・首相も同じような提案をした事がありましたが、研究してもよく分かりません」と答えた。

ドワイトは、「日本の対中貿易はリスクが伴うが、アメリカ国民が理解してくれれば有益かもしれない」と言った。

実はドワイト・アイゼンハワーは、秘密工作を重視していた。

彼の政権の時代に、CIAはイラン、グアテマラ、インドネシア、キューバなどで、政権転覆の秘密作戦を行っている。
これらの作戦を、ドワイトは承認している。

1955年2月27日に、日本では総選挙が行われた。

民主党185、自由党112、左派の社会党89、右派の社会党67という結果だった。

左右の社会党は、憲法改定を阻止するのに必要な3分の1の議席を確保した。

同年3月3日にホワイトハウスで行われたNSCで、アレン・ダレスCIA長官は、この選挙結果の分析を述べた。

「ほぼ事前の予想通りで、左右社会党が3分の1を上回り、日本の再軍備に法的根拠を与える憲法改定は一層困難となった。」

翌4日にウィリアム・シーボルト国務次官補代行は、ハーバート・フーバー2世・国務次官に報告している。

「鳩山内閣は少数与党で、困難な決定は先送りするだろう。

民主党は党内対立があり、内閣の生命は短いと予想される。

鳩山一郎は感情的で幼稚だが、何人かの極めて能力が高い顧問が抑制効果を持つだろう。

防衛予算の増加はないだろう。

鳩山が言う防衛努力とは、米軍の撤退を早める事が目的だ。

だから日本の防衛努力が増せば、米国はその代償を払うことになる。」

アメリカ政府が採った戦略は、「もっとアメリカ寄りの人物と接触し、その者の願望を利用する」というものだった。

そうして、民主党幹事長の岸信介に接触していった。

アメリカ政府は、吉田茂から鳩山一郎に首相が替わった舞台裏で、対日工作の強化に乗り出した。

『心理戦略委員会(PSB)』や『工作調整委員会(OCB)』は、日本で秘密工作を実行していく。

『OCB(工作調整委員会)』とは、NSCが立てた方針に基づき、CIAを使った秘密工作を検討する合議組織で、国務省と国防総省の次官級、CIA長官で構成されていた。

1955年4月9日のNSCでは、新しい対日政策「NSC5516/1号」を承認した。

これは、鳩山政権の対米自立路線を認識した上で、次の行動を採ることを決めた。


効果的な保守政権を育てる


個人的な接触や支援をして、実業家や政治家らの理解と協力を拡大する


共産勢力を攻撃し、共産勢力を弱めるための治安措置を支援する


ソ連との外交樹立には反対しないが、中国との外交に反対する


歯舞、色丹の両島の主権をめぐる日本の主張を支持する。ソ連の主張に対して譲歩しない

アメリカ政府が最も懸念したのは、日本とソ連の交渉だった。

1955年3月10日のNSCで、アレン・ダレスCIA長官は指摘している。

「日本は千島列島について、歯舞と色丹の返還を希望している。

ソ連は歯舞を返還するわずかな可能性がある。

もしソ連が千島列島を部分放棄したら、アメリカはただちに沖縄の返還を求められる事になる。
だから、ソ連がその策に出ることは考えられる。」

1955年4月7日のNSCでも、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は述べている。

「千島列島と南サハリンに対するソ連の主張は、実質的に沖縄および小笠原に対するアメリカの主張と同じだ。

従って、ソ連を追い出す努力をすれば、我々自身を沖縄と小笠原から追い出してしまう恐れがある。」

これを聞いたアイゼンハワー大統領は、笑顔を浮かべながら言った。

「ロシア人を千島列島から追い出そうとしても、成功しないよ」

だがジョン・フォスター・ダレスは真剣で、こう応じた。

「沖縄は、ソ連のとっての千島列島よりも、もっと価値がある。
だから、沖縄での我々の立場を危険に晒してはならない。」

このようにアメリカ政府は、ソ連が北方領土を返還する可能性の方を恐れていた。

日ソの交渉は、ソ連の強硬姿勢で難航した。

このため重光葵・外相は、1956年8月24日にジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談して伝えた。

「ソ連は、米英両国の同意を得て(北方領土)諸島を占領している、と主張しています」

葵は、「解決するには関係諸国が参加した国際会議を開くしかないのではないか」と、ジョン・フォスターに提案した。

これに対しアメリカ政府は、「もし会議を開けば、ソ連は台湾や沖縄の問題を含めようと図るし、日本の社会党は沖縄の返還を求めるはずだ」と恐れた。

結局アメリカ政府は、56年9月7日に次の覚書を日本政府に渡し、ようやく日ソ交渉の支援に動き始めた。


アメリカは、日ソの戦争状態を終結すべきと考える


サンフランシスコ講和条約は、日本が放棄した領土の主権を決定していない


択捉と国後の両島は(歯舞、色丹とともに)、日本の主権下にあると認識されるべきだ

これを受けて鳩山一郎・首相は、10月7日に河野一郎・農相と共にソ連に向けて出発した。

そして同19日に『日ソの国交回復に関する共同宣言』に調印した。

領土問題は、「歯舞と色丹は平和条約の締結後に返還する」と盛り込まれた。

日ソの国交回復により、この年の国連総会で日本の加盟が認められた。

(※日本は満州侵略を行う中で1933年に国連を脱退し、それ以来加盟してなかった)

鳩山内閣はこれでエネルギーを使い果たし、12月20日に総辞職した。

結局、鳩山一郎は2年の在任中、1度も訪米しないという、戦後では異例の首相となった。

(2020年6月13&18日に作成)


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