(『日米同盟はいかに作られたか』吉次公介著から抜粋)
1954年11月に、いったん自由党に復党していた鳩山一郎の一派が、再び自由党から離れた。
そして改進党と一緒になり、日本民主党が作られた。
総裁は鳩山一郎、幹事長は岸信介という布陣である。
日本民主党が結党にあたって掲げたのは、自主外交の展開、憲法改正、自衛軍の創設と米軍の漸次撤退、安保条約の双務的なものへの改正であった。
日本民主党は、ひと月も経たぬうちに政権の座を手に入れる。
54年12月に造船疑獄事件などで吉田内閣が総辞職し、第二党の日本民主党に政権が回ってきたのである。
鳩山は、首相指名時に「早期に解散を行う」と左右社会党と合意していたため、すぐに解散・総選挙に打って出た。
55年2月に行われた総選挙では、吉田茂・内閣の政治に飽いていた国民の間で「鳩山ブーム」が起き、日本民主党は185議席で第一党に躍進した。
ただし単独過半数には届かず、少数与党内閣として困難な政権運営となっていく。
鳩山政権は、ソ連との国交回復や、国連への加盟を目指す、自主外交を展開した。
再軍備に関しては、55年3月に「防衛六ヵ年計画」を作成したが、60年度までに陸上自衛隊を18万人にして、在日米軍の地上部隊は完全撤退させることを計画した。
この時期、20万人もの米軍が日本に駐留しており、各地で問題を起こしていた。
元駐米大使の安川壮が証言しているように、「対米自主」を掲げて日ソの国交回復に邁進する鳩山政権に、アメリカ政府は不安感を抱いていた。
1955年8月に、重光葵・外相は訪米して、日米安保条約の生みの親というべきジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談した。
重光の目的は安保改定の打診で、こう告げた。
「安保条約の前文に表明された米国の期待に応ずるよう努力してきた。
日本の防衛力増強に伴い、米軍を日本から逐次撤退させたい。
今や日本は、NATOやSEATOの国の軍備を凌駕する軍事力を有している。
それを鑑み、現在の一方的な安保条約に代わる双互的な新条約を締結したい。」
だがダレスは、「安保改定は時期尚早である。防衛力をさらに増強し、自由諸国との協力に貢献しうるようになった時に行うべきだ。」と反駁した。
食い下がる重光に対して、ダレスは「日本は未だ相互防衛の能力がない」と言い放ち、「自衛力が完備して憲法改正すれば安保改定が可能になる」と言った。
重光は粘り続けて、「我々は平等を欲する」とダレスと激論を交わしたのであった。
実のところダレスは、重光が提案する新条約によって在日米軍基地の使用が制限される事を恐れていた。
さらに日本国憲法が自衛隊の海外派遣を禁じていることを重く見ており、日本と相互防衛条約を結ぶなど論外であった。
この重光=ダレス会談に関して特筆すべきは、裕仁(昭和天皇)の動きである。
重光は当初、在日米軍の全面撤退を提案しようとしていた。
だが、それに裕仁が反対したのである。
重光は訪米に出る3日前(8月20日)に裕仁に内奏したが、こう言われた。
「日米協力は反共のため必要だ。駐屯軍の撤退は不可だ。」
ダレスとの会談で重光が米軍の全面撤退に触れなかったのは、裕仁の意向もあるだろう。
裕仁は、重光訪米後も日米関係の安定に動いている。
56年2月17日には、ワシントンへの赴任を控えた谷正之・駐米大使に対し、「アメリカの軍事的・経済的な援助が、戦後日本に重要な役割を果たしてきたことに深く感謝し、援助が継続されることを希望する」とのメッセージを伝えるよう命じた。
ワシントンに到着した谷は、ダレスらと会談してこのメッセージを伝えた。
ダレスは、メッセージをアイゼンハワー大統領に伝える事を確約した上で、「天皇が果たしている目立たない、しかし重要な役割」に触れ、「良好な日米関係に天皇の影響力は重要である」と応じた。
アイゼンハワー政権は、1955年4月に決定したNSC5516/1で、「日本に対しては、政治・経済の安定を阻害してまで軍事力を増強するよう圧力をかけるのは避ける」との方針を定めた。
その理由は、内灘事件や第五福竜丸事件により、日本で中立主義と反米感情が拡がっていて、無理難題を突きつけると中立に向かう可能性があったからだ。
ちょうどこの時期は、55年7月に米ソの首脳会談が10年ぶりに開催されるなど、世界に「雪解け」ムードが広がっていた。
だがアメリカ政府は、雪解けが日本再軍備のペースを鈍らせることを危惧し、鳩山政権に圧力をかけ続けた。
(2019年4月8日に作成)
(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)
鳩山一郎・内閣が1954年12月に誕生すると、アメリカと防衛分担金の削減の交渉をすることにした。
重光葵・外相と一万田尚登・蔵相が1955年3月24日から、、ジョン・アリソン駐日大使とジョン・ハル国連軍司令官と交渉を始めた。
交渉は4月19日に妥結したが、防衛予算の増額を約束させられてしまった。
鳩山内閣で外相になった重光葵は、日本では「親しみを欠く冷たい人物」と見られていたが、アメリカ政府は彼を警戒していた。
アメリカ国立公文書館にある葵のファイルには、こう書かれている。
「重光葵は、(親米の)吉田茂に強力に対抗してきた。
特に、吉田政権の再軍備の遠回しなやり方と、アメリカへの従属を批判した。
彼は東西の両陣営と関係して、日本をアジアの安定勢力にしたいと希望している。
(いわゆる中立主義)
彼はイギリスとの関係を強化し、共産圏と貿易を促進して、(中立化を)達成するかもしれない。
外交官としての能力と経験がある。」
(1955年6月23日付のアメリカ陸軍情報部の文書より)
重光葵は、親英派で、戦前にはイギリス大使として赴任した事がある。
1932年の駐中国公使だった時に、反日運動家が仕掛けた爆弾で右足を失った。
米戦艦ミズーリでの降伏文書への調印式にも、全権として臨んだ。
東京裁判でA級戦犯として禁固7年の判決となり、公職追放が解除された1952年に政治家に転じた。
改進党を率いた後、54年末に鳩山政権が発足すると副総理・外相になった。
重光葵・外相は、日米安保条約の改定を、1955年7月にジョン・アリソン駐日大使に提案した。
7月28日付のアメリカ国務省のメモには、鳩山政権が示した改定案の概要が記されている。
①
相互防衛の条項を盛り込み、中ソと対抗する
有効期間は1980年までの25年間で、以後は5年ごとに延長の可否をする
②
米軍の地上部隊は、6年以内に撤退する
③
米軍の空軍と海軍も、6年以後に撤退で合意する
④
在日米軍とその基地は、相互防衛のみに利用される
⑤
防衛分担金は、日本はこれ以上は拠出しない
鳩山政権は、米軍の日本からの完全撤退を提案したのだ。
これについてウォルター・ロバートソン国務次官補は、「在日の米空軍と海軍基地は、無期限で維持されるのがワシントンの望みだ」と記している。
当時の日本では、社会党だけではなく、保守勢力も「日米安保条約は不平等だ」と主張していた。
だからウォルター・ロバートソンは、「安保改定への圧力は今後も高まる。相互安保条約の可能性を探るべきだ」とジョン・フォスター・ダレス国務長官に助言した。
重光葵・外相の訪米が迫る中、1955年8月24日に国務省内でジョン・フォスターを囲んで対策を協議した。
多くの意見は「鳩山政権を相手に安保改定を行うなんて、とんでもない」だった。
1955年8月30日の日米会談で、ジョン・フォスター・ダレス国務長官ははっきり言った。
「安保条約の改定は時期尚早だ。
日本政府に新条約を運用する能力があるのか、確信が持てない。」
重光葵は、共産主義勢力の危険性を挙げて安保改定の必要性をしつこく訴えたが、ジョン・フォスターは拒否した。
この時の日本の訪米団は、まとまりを欠いていた。
シーボルド国務副次官補は、ジョン・フォスター・ダレス国務長官に報告している。
「この代表団は、日本の政局を反映しています。
岸信介は民主党代表、松本滝蔵は鳩山首相の個人代表、河野一郎は独立した役回りです。」
実際に岸信介は、会談中に「アメリカが時期が熟せば安保条約改定を協議すると知り、勇気づけられた」と発言した。
重光葵・外相は「新条約の準備協議をすぐにでも」と食い下がったが、ジョン・フォスターは拒否した。
重光外相は孤立していた。
日米会談の翌日の8月31日の朝に、河野一郎、岸信介、松本滝蔵が国務省にシーボルドらを訪ねて、自己アピールをしている。
信介は、「共産主義の脅威については、重光外相とは見解が違う。日本の基本的な問題は保守勢力の連合をつくる事にある。河野、三木武吉と保守合同で協力している」と述べ、アメリカ側を喜ばせた。
信介が所用で退出すると、今度は河野一郎が「もっと率直に話しましょう」と言って自分を売り込み、国内の政局を説明した。
帰国後に、松本滝蔵は在日大使館にグレアム・パーソンズ参事官を訪ねて、こう報告している。
「岸、河野、松本の3人は、新安保条約は時期尚早とのダレス長官の見解に、全面的に同意する。
岸は重光をいつでもクビにできたが、日米会談の価値を下げるので更迭しなかった。
(民主党内の)重光ら旧改進党のグループが、保守合同に反対している。」
滝蔵は、日本政府の内部情報を伝えたのだ。
重光葵は、鳩山一郎・内閣の外相として、日ソの国交回復と、日本の国連加盟を成し遂げた。
彼は1957年1月に急死した。
(2020年6月13&18日に作成)