(『秘密のファイル・CIAの対日工作 下巻』春名幹男著から抜粋)
1955年10月13日に、左派の社会党と右派の社会党が統一し、分裂していた日本社会党は1つに戻った。
委員長には鈴木茂三郎、書記長には浅沼稲次郎が選出された。
その1ヵ月後の11月15日に、前日に解党した民主党と自由党が合体して、自由民主党(自民党)が結成された。
この新党は、総裁の人事で決着がつかず、旧民主党からは鳩山一郎(総裁)と三木武吉が、旧自由党からは緒方竹虎(総裁)と大野伴睦が出て、この4人で当面は「総裁代行の委員会」として党を運営することになった。
幹事長には岸信介が選ばれた。
こうして2大政党による、いわゆる「55年体制」が生まれた。
この体制は、自民党が下野するまで38年間も続いてゆく。
自民党は、翌56年4月に党大会を開き、鳩山一郎・首相が初代の総裁に選ばれた。
実は、舞台裏で強力に保守合同(保守勢力の合同=自民党の結成)を後押ししたのが、アメリカ政府だった。
1955年4月7日の時点で、アメリカのNSC(国家安全保障会議)はNSC5516/1号を承認したが、そこにはこう明記されている。
「アメリカの目標を達成する基礎として、日本で保守政府の発展を促進する。
保守勢力は派閥対立をしていて、効果的な政府は向こう2~3年は現れそうにない。」
すでにNSCやOCB(工作調整委員会)には、日本の保守勢力の派閥対立が報告されていた。
『OCB(工作調整委員会)』とは、NSCが立てた方針に基づき、CIAを使った秘密工作を検討する合議組織で、国務省と国防総省の次官級、CIA長官で構成されていた。
1954年10月28日に、OCBに提出された報告書は言う。
「保守勢力は、個人的な争いで分裂を続けている。
保守勢力が協力すれば、衆参で3分の2を支配できる。
アメリカは効果的な保守派の行動を奨励すべきだ。」
重光葵・外相が訪米して行った日米の外相会談が、1955年8月29日に行われた。
これに同席した岸信介と河野一郎は、ジョン・フォスター・ダレス国務長官に保守合同に向けた現状を説明した。
ジョン・フォスターは、「保守勢力が一緒になる事が必要だ。そうなれば我々も支援しやすくなる」と強調した。
55年10月15日には、ジョン・アリソン駐日大使が鳩山一郎・首相を訪ねて、「保守合同への前進をお願いしたい」と伝えた。
すると一郎は、「保守合同への成功が疑問になってきた。最近の世論調査では、私と民主党は極めて人気が高い」と、消極的な返事をした。
鳩山政権とアメリカ政府の波長が合わなかった原因は、こんな点にもある。
自民党が結成された1955年11月15日に、ホワイトハウスで開かれたNSC(国家安全保障会議)で、アレン・ダレスCIA長官は述べている。
「これにより、単一の保守党が生まれ、国会で多数派となる」
翌16日に在日アメリカ大使館は、保守合同について秘密電報で国務省に、次の事を報告している。
①
与党(自民党)は多数を回復し、国会を効果的に運営できる状況になった
②
個人や派閥の対立は続くだろう、自民党に規律を課す人物はいない
③
社会党は、憲法改定を防ぐのに必要な3分の1以上を維持している
④
保守勢力が社会党に対して選挙で強くなった自信はない
⑤
岸信介や三木武吉らが保守合同の成立に努力した。
社会党に対抗するために自民党は、公職選挙法の改定、社会保障の予算増、住宅施策の拡充、各種の補助金の増加を図る。
防衛費の増加は延期する。
自民党の強化には1年以上かかるので、その前に総選挙は行われないだろう。
⑥
自民党は、政治基盤を確立する前に防衛分野で決然とした政策を採る事はない
⑦
防衛分野への助言や圧力は効果的でない
つまりアメリカ政府は、発足したばかりの自民党は、じっくり育てていくのが良いと考えた。
アメリカ国務省のロバート・マクラーキン北東アジア部長は、秘密メモでこう記している。
「非常に勇気づけられる展開だが、堅固なコントロールに向けた一歩にすぎない。
自民党の形成期には、不必要な圧力は避け、支援をするのが重要だ。」
この時点で国務省は、「翌56年4月の総裁選では、たぶん鳩山一郎が引退し、緒方竹虎が総裁になる」と予想し、見通しを誤った。
これは、鳩山一郎の引退を願う希望的な観測だったようだ。
アメリカ政府は緒方竹虎に期待していたが、彼は56年1月に病死した。
(2020年6月19日に作成)
(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)
日本社会党は、吉田茂・内閣が(その後ろにいるGHQが)講和条約と安保条約の締結を目指すと、その評価をめぐって内部対立した。
社会党の左派は、1951年1月の党大会で採択した『平和4原則』を重視した。
つまり「全面講和」「中立の堅持」「米軍に基地を提供しない」「再軍備しない」の4原則に基づき、講和条約と安保条約に反対した。
いっぽう社会党の右派は、GHQと吉田内閣が目指す「片面講和」を認めて、講和条約には賛成、安保条約には反対を唱えた。
(※全面講和とは、ソ連や中国を含めたすべての国と講和条約を結ぼうという考えである。
GHQと吉田内閣は、アメリカなど西側陣営のみと講和条約を結ぶ方針を打ち出し、それは片面講和と言われた。)
そして社会党は、1951年10月23&24日に開かれた臨時党大会で、「左派社会党」と「右派社会党」に分裂した。
左派社会党は国会議員46人を擁し、委員長は鈴木茂三郎、書記長は和田博雄が選ばれた。
平和4原則を掲げつつ、中国やソ連を平和勢力と位置づけ、社会主義陣営(東側陣営)への参加を方針にした。
プロレタリア独裁を容認するなど、マルクス主義の影響が強かった。
右派社会党は国会議員57人を擁し、委員長は河上丈太郎、書記長は浅沼稲次郎が選ばれた。
こちらは反共を掲げ、再軍備を容認した。
片面講和に賛成し、アメリカ陣営(西側陣営)で民主社会主義を行うとした。
分裂後の社会党は、再統一を目指して断続的に接触があったが、1954年12月に鳩山一郎・内閣が誕生し「鳩山ブーム」が起きると、対抗するために統一の動きが本格化した。
鳩山内閣は、それまで長期政権で国民に飽きられた吉田内閣の逆をいく政策を打ち出し、国民から支持されてブームとなった。
1955年1月に、両派の社会党は、それぞれ「統一実現に関する決議」をした。
そして同年10月13日に、統一大会が開かれ、社会党は1つに戻った。
なお黒田寿男らの労農党が、57年3月に社会党に加入した。
保守合同(保守勢力の合同=自民党の結成)は、日本の財界も要望していた。
左派社会党が「プロレタリアート独裁」を綱領に盛り込み、選挙のたびに議席を増やしている事に、財界は不安を覚えていた。
1955年2月の総選挙では、鳩山一郎の民主党は185議席をとったが、当時の過半数である234に遠く及ばなかった。
この結果が保守合同を促したといえる。
同年4月12日に、民主党・総務会長の三木武吉は記者会見において、「保守結集ためなら鳩山内閣は総辞職していいし、民主党は解党してもいい」と語った。
ここから民主党と自由党の合同の話が本格化した。
三木武吉は、合同に執念を燃やし、宿敵であった自由党の大野伴睦を口説いて味方につけた。
最大の難関は、鳩山一郎・民主党総裁と緒方竹虎・自由党総裁のどちらを党首にするかの問題だった。
これは暫定的に「代行委員制」という集団指導体制にすることで切り抜けた。
新しく生まれた自由民主党(自民党)の総裁は、投票で決める事になっていたが、結党後2ヵ月で緒方竹虎が急死したため、56年4月の総裁選は鳩山一郎が対立候補なしに選ばれた。
上記した1955年2月の総選挙では、統一を予定している左右の社会党が、合計で156議席をとった。
他にも左派政党は、労農党が4議席、共産党が2議席をとっており、改憲を阻止するのに必要な3分の1の議席を超えた。
これにより、54年12月に発足した鳩山内閣は、大きな目標にしている改憲が早くも頓挫した。
鳩山一郎・首相は、衆院で3分の2の議席をとるため、衆院の選挙制度を小選挙区制にしようと計画した。
当時の各党の力関係だと、小選挙区制ならば保守陣営が3分の2をとれた。
鳩山内閣は56年3月に、455の小選挙区と21の2人区にする選挙法改定案をまとめた。
ところが、その区割りは自民党議員、とくに旧民主党の議員に有利に線引きされていると暴露された。
世論は怒って集中攻撃をし、この選挙法改定案は廃案となった。
こうして鳩山一郎の改憲は、完全に挫折した。
(2020年6月24日に作成)