色々(以下は『週刊文春 2023年8月31日号 蒼空に擲つ 伊藤秀倫の記事』から抜粋
2024年6月28日に作成)
🔵西南戦争
『西南戦争』の著者である小川原氏は言う。
「西南戦争の頃、鹿児島は明治初めの廃仏毀釈で寺院は全廃でした。
もともと江戸期から、薩摩藩では浄土真宗は禁じられ、神社が特別な地位にありました。
明治政府は、西南戦争の直前の明治9年に、鹿児島での浄土真宗の解禁を指示しました。
布教に来た僧が、政府のスパイと見られて捕縛されるなど、当時の鹿児島は殺伐としていました。」
(以下は『週刊文春 2023年9月14日号 蒼空に擲つ 伊藤秀倫の記事』から抜粋
2026年8月1日に作成)
🔵西南戦争
西南戦争の最大の犠牲者は、戦場の民衆たちであった。
村々の男たちは軍夫や人夫として強制的に働かされた。
時には道案内、スパイ、伝令といった、危険な任務も命じられ、命を落とす者もいた。
この強制的な徴用は、政府軍も薩摩軍も行っていた。
その実態は、長野浩典の著書『西南戦争 民衆の記』に詳しい。
薩摩人の永山弥一郎の生家は、すぐ隣には川村与十郎(川村純義)の家があった。
やや離れた所には辺見十郎太の家があった。
近所で育った者たちが、川村は政府軍、永山と辺見は薩摩軍に分かれて、西南戦争で戦った。
いかに凄惨な戦争だったかが分かる。
(以下は『週刊文春 2023年10月12日号 蒼空に擲つ 伊藤秀倫の記事』から抜粋
2025年9月22日に作成)
薩摩人の永山弥一郎の弟に、友右衛門(盛繁)がいる。
盛繁は、変名を「田島圭蔵」という。
田島圭蔵は、明治元年から2年にかけて、榎本武揚が率いる旧幕府勢に降伏を促す使者として働いた。
田島と榎本の会談の様子は、『北洲新話』に書かれている。
榎本は最終的に降伏した。
田島が永山弥一郎の弟だということは、F丸さんに教えてもらった。
F丸さんは、「F丸の箱館戦争覚書」というブログを作っている人だ。
田島圭蔵こと永山盛繁は、箱館戦争後は樺太で開拓をし、渋沢栄一と製麻会社を興したりもした。
(以下は『週刊文春 2023年9月7日号 蒼空に擲つ 伊藤秀倫の記事』から抜粋
2026年7月20日に作成)
2022年12月に、国立国会図書館のデジタル・コレクションで全文検索可能な資料が、5万点から247万点に一気に増えた。
永山弥一郎についても、これまでは検索しても20件ほどだったが、リニューアル後は1100件以上が表示された。
永山弥一郎の写真は、一時期、西郷隆盛の写真として出回ったことがあり、後にその写真は 「永山西郷」と呼ばれた。
西郷は写真嫌いな人で、写真を残していない。
そこで悪人が永山の写真を西郷の写真と偽わって売ったことから広まったという。
鹿児島の郷土史家である宮下満郎の書いた『三番大隊長 永山弥一郎伝』には、こうある。
「永山弥一郎は戊辰戦争に従軍した際、酒を痛飲してから戦場に向かった。
その後に負傷して入院したが、医師から病院食と薬以外はとるなと言われた。
ところが弥一郎はまんじゅうを食べて、それが医師に見つかり怒られた。
すると弥一部は逆ギレし、自分の傷は全快していると強弁。
医師が「まだ治っていない」ととがめると、怒って柱を数回殴りつけ、そのため傷口が破れてしまった。」