タイトル戦国時代までは犬の命が軽かった、ブスについて

(以下は『週刊文春 2023年11月16日号 清水克行の記事』から抜粋)

鎌倉時代から室町時代・戦国時代までは、人命は軽く扱われ、さらに犬の命は軽かった。

鎌倉武士の間では、逃げる犬を的にして、馬上から矢を射る「犬追物」(いぬおうもの)というゲームが大流行した。

鎌倉幕府の北条重時は、家訓の中で「(危ないので)人の前にいる犬を射てはならない」と書いているほどだ。
武士たちは、人前にいる野良犬も矢で射っていたらしい。

戦国時代の伊達家の分国法『塵芥集』(じんかいしゅう)には、次の条文がある。

「犬を討つのは、鷹のエサにするならば問題はない。
ただし地位のある人の家の門内に入って討つのはいけない。」

当時は犬の肉は鷹のエサとして重宝された。

室町時代の公家が書いた日記『建内記』(けんないき)に、次の記述がある。

「山名(宗全)の家来たちは、犬狩りが好きで、田畠を踏み荒らし、農民の飼っている犬を捕えては犬追物をしている。

犬を殺した後はそれを食べたり、鷹のエサにする。

犬を食べることも流行し、野放しである。」

動物を虐待して生命を奪う者は、放置しておくと人の生命も軽んじるようになる。

江戸時代前期の武士道書の『葉隠』(はがくれ)に、次の一文がある。

「山本吉左衛門は、親の教育方針で、5歳で犬を斬り、15歳で罪人を斬った。

昔(の武士)は14~15歳で人の首を斬るのが普通だった。

今は子供に人を斬らせなくなり、油断している。」

『葉隠』は、武士は幼いうちから人殺しに慣れておけという、恐ろしい教育を述べている。
そして人殺しの入口として、犬殺しを位置づけている。

江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉は、「生類憐みの令」を出したことで有名だ。

その狙いは、こうした命を軽んずる社会を改良するためだった。

身近な犬を大切にする法は、当時は希代の悪法とされたが、「修羅の国」日本を変える処方箋だったのだ。

現代のペットを家族と考える私たちは、この延長線上にいる。

(以下は『週刊文春 2023年11月23日号 清水克行の記事』から抜粋)

公家の万里小路時房は、9歳の娘・算子の顔が醜いのを、たびたび日記でボヤいている。

「顔面寄りて、足まで色黒く、眼は落ち入り、歯は出て、さながら鬼のよう」と書いている。

算子が発病すると、時房は生きのびたら仏門に入れると決め、そのまま仏門に入れてしまった。

細川勝元の娘・めし(洞松院)も不美人で、仏門に入れられたが、政略結婚のため30歳の時に赤松政則に嫁いだ。

彼女は鬼瓦のような顔と、落書で評されている。

だが夫の死後、赤松家を差配してリーダーシップを発揮した。

吉川元春の妻である新庄局も、不美人で知られた人だが、元春を支えて賢女と呼ばれた。

元春と妻が連名で息子にあてた手紙には、「われら二人」「親ふたり」「二人の親」と書いてあり、夫婦の深い情愛を感じさせる。

大塚ひかり氏によると、室町時代までのブスは男性的な、「色黒」、「鬼瓦のような顔」、「がに股」などが特徴だった。

しかし以後のブスは、オカメ、オタフクなど、女性的なブスが中心となった。

もともと「ブス」という言葉は、「毒(附子)」から来ていて、「毒にあたり中毒になった人の顔」という意味だ。

そこから醜い顔をブス顔と呼ぶようになった。

(以上は2025年6月28日、7月17日に作成)


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