タイトル三好元長(三好長慶の父)

(以下は『三好長慶』長江正一著から抜粋
2026年8月8日に作成)

🔵足利義稙・将軍が出奔し、細川高国は足利義晴を将軍にする

三好之長が細川高国らとの戦争に敗れて、永正17年(1520年)5月11日に処刑されると、孫の元長が三好家の家督を継いだ。
(※之長の息子はすでに戦死していた)

なお元長は、後に名を長基に改めている。

三好長慶は、この翌々年に元長の嫡子として生まれた。

三好之長を破って幕府の権力を握った細川高国は、足利義稙・将軍と折り合いが悪く、不満をつのらせた義稙は大永元年(1521年)の3月7日に京都を出奔して、10日に淡路島に着いた。

細川高国は、播磨守護の赤松義村の所にいる足利義晴(前将軍・足利義澄の子)を、播磨守護代の浦上村宗と謀って7月に京都に迎え、第12代将軍に就けた。

足利義晴はこの時まだ11歳だった。

この後、赤松義村は浦上村宗に殺された。

一方、足利義稙は兵を集めて細川高国を倒そうとしたが、兵が集まらず阿波へ逃げた。

義稙はそのまま大永3年(1523年)4月7日に58歳で死去した。

細川高国は幼い将軍・足利義晴の管領となって、幕府の最高権力者となったが、大永5年10月23日に嫡子の稙国を亡くした。

🔵細川高国軍に三好・柳本軍が勝ち、高国と将軍・足利義晴は近江に逃げる

細川高国に重用される細川尹賢と香西元盛は、勢力争いを始め、尹賢は讒言して元盛を殺した。

これを受けて、大永6年(1526年)10月に香西元盛の兄・波多野稙通と弟・柳本賢治は、細川高国に叛いた。

波多野は丹波の八上城に、柳本は丹波の神尾寺城にこもった。

細川尹賢は11月に丹波へ出陣したが、その軍から丹波守護代の内藤国貞が離脱して柳本側に付いたので、尹賢は京都へ退却した。

この幕府(細川高国政権)の混乱に乗じて、阿波にいる三好家は権力奪還のため動き出し、12月15日に三好勝時が堺へ上陸した。

勝時は之長の弟である。

細川高国は守りを固めるため、東山の勝軍地蔵山に築城し始めた。

柳本賢治は、大永7年(1527年)1月に山城を攻め、京都の一部を焼き、2月5日に山崎城を落とした。

三好勝長・政長の兄弟(三好勝時の子)は、2月11日に柳本軍と合流し、13日に細川高国軍と戦って大勝した。

高国の甥の日野内光はこの合戦で討死にした。

敗れた細川高国は、将軍・足利義晴と共に2月14日に近江へ逃げ落ちた。

三好勝時や柳本賢治たちは16日に入京した。

🔵三好元長は足利義維を擁立する

阿波で戦勝を聞いた三好元長は出陣して、大永7年(1527年)3月22日に堺に上陸した。

三好元長は、管領だった細川澄元の遺児である晴元(14歳)と、足利義稙の養子である義維(よしつな。17あるいは19歳)を伴っていた。

足利義維は、足利義澄の子で、足利義晴の兄弟である。

義維は義澄が播磨にいた時に身分の低い女に産ませたという。
一説では、義維のほうが義晴よりも先に生まれた兄という。

細川高国によって京都から追放された将軍・足利義稙は、権力回復を目指し、細川家に保護された義維を養子にしていた。

(前述のとおり、その後に義稙は死去した)

足利義維は、前々将軍の足利義澄の子であり、前将軍・足利義稙の養子となり、現将軍の義晴とは兄弟である。

この男を、三好元長は擁立して上京した。

義維は将軍になるのを目指し、 それまでは義賢という名だったのを義維に改めた。

🔵三好元長たちと足利義晴(細川高国)は合戦し、勝った元長が京都の権力者となる

一方、近江へ逃げた足利義晴と細川高国は、諸方に援軍を頼み、豊後の大友義鑑と土佐の一条房家に(三好元長の本拠地である)阿波へ攻め込むことを命じた。

越前の朝倉教景や近江の六角定頼は、高国側について京都に兵を率いて現れた。

三好元長は、丹波の波多野稙通や柳本賢治と打ち合わせた上で、攻囲していた伊丹城から西院に陣を移した。

元長たちは、足利義晴の布陣する東寺を包囲したのである。

だが三好・柳本軍が6千人に対し、義晴方は2.4万人もいた。

大永7年(1527年)11月19日に合戦が行われたが、進撃してきた朝倉軍を三好軍が破り勝利した。

ところが12月14日に下京で三好兵と柳本兵が衝突し、26日には畠山義宣の兵と波多野の兵が戦うという内紛が起こった。

三好元長は六角定頼の仲介で、翌1528年の1月17日に足利義晴と和談した。

しかるにこの和睦に不満のある柳本賢治と三好政長は、三好元長側から離脱した。

さらに、元長の主君である細川晴元も和睦を承知しなかった。

一方、足利義晴のほうも、2月に入ると旗下の朝倉軍らが続々と帰国した。

これに不安を感じた細川高国・細川尹賢は、5月14日に近江の坂本へと退いた。

足利義晴も和睦は無理と見て、5月28日に六角定頼と共に坂本に退いた。

義晴は9月に、要害の地で京都にも近い、近江の朽木に移った。

将軍と管領のいない京都では、三好元長が権力を握り、堺にいる足利義維を名目上のトップにした。

🔵柳本賢治が暴れるが、やりすぎて失脚し殺される

1528年9月に、柳本賢治は大和に侵入して、細川高国方の城を攻めた。

彼は閏9月には河内へ入り、高国方の畠山稙長を攻めた。

柳本賢治は、12月30日に山城の山崎で、三好元長方の伊丹弥三郎を殺した。
この事で1529年1月1日に三好勝宗らに攻め破られ、河内の枚方(ひらかた)へと逃げた。

しかし柳本は4月に大和の諸城をおとし、寺社を荒らした。

柳本賢治の活動は、細川晴元の黙認があったらしく、これに不満の三好元長は8月に阿波へ帰ってしまった。

柳本は三好政長と謀って、8月16日に三好元長方の伊丹元扶を伊丹城に攻め、11月21日に元扶を戦死させた。

柳本賢治は、朽木にいる足利義晴を上京させて足利義維・細川晴元と和解させようとした。

しかしこれは晴元も三好政長も了承せず、柳本は面目を失った。

柳本賢治は1530年5月10日に剃髪し、播磨の別所就治から援兵を求められたので播磨に向かった。

一方、細川高国は1529年1月に伊勢にいる女婿の北畠晴具を訪れ、そこから越前→出雲 →備前と流れて、三石城にいる浦上村宗の許に身を寄せた。

そして播磨の依藤城を攻めていた柳本賢治を1530年6月29日に暗殺させた。

🔵

細川高国は、浦上村宗と共に1530年7月27日に別所就治の小寺城と三木城を攻め落とした。

高国たちは8月からは摂津を攻め、11月6日に薬師寺国盛のいる尼崎城を降伏させた。

細川高国方の牢人・内藤彦七らは京都で暴れ始め、河内守護代の木沢長政はこれと戦い、1531年に入ってからは京都で小さな戦争が続いた。

朽木にいた足利義晴は2月17日に坂本に入り、内藤らに敗れた木沢は3月7日に京都を脱出した。


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