タイトル大内義興
10年ほど管領代として幕政を仕切る

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 古川薫の記事から抜粋
2026年8月13日に作成)

🔵大内家の始め

大内家は、もともとは周防国の官吏だったが、次第に武士化して行った。

大内盛房は平清盛の逆鱗にふれて遠島送りの刑となり、その恨みから源平戦争の時は源氏に味方して戦い、源氏勝利の時流に乗って出世した。

この盛房の時から、大内介(おおうちのすけ)を称し始めた。

大内は、現在の山口県山口市にあった所で、そこに彼らの居館があった。

だが鎌倉幕府で大内家は御家人になれず、鎌倉時代は地方の土豪でしかなかった。

室町時代に入り南北朝の抗争が起きると、大内弘世は周防国と長門国の守護に任命された。

大内弘世は長門国の土豪・厚東(ことう)家を討ち、防長支配の基盤を固めた。

彼は大金を持って上京し、正平19年(1364年)に京都で大金をばらまいて、足利幕府で地位を不動のものとした。

大内弘世は帰国すると、京都に似た地形の山口に目を付け、ここに京都そっくりの町を造ろうと構想した。

以後200年にわたり、大内家は財をかたむけて山口に「小京都」を造っていった。

🔵大内義弘の出世、応永の乱

大内弘世の息子・義弘は、九州探題として赴任してきた今川貞世に協力して働き、足利義満・将軍(足利幕府の三代目将軍)に認められた。

明徳の乱(1391年)の時、大内義弘は大軍を率いて上京し、山名家を討って勲功を立て、紀伊国と和泉国の堺をもらった。

大々名となった大内義弘は、倭寇に苦しむ朝鮮の王から頼まれて、「禁寇令」を出して倭寇を取り締まった。
そのお礼として朝鮮との貿易を許可され、経済力を高めた。

強大になった大内家を将軍・足利義満は危険と見て、抑圧に動いた。

これに怒った大内義弘は、応永6年(1399年)に、2万の兵を率いて堺に立て籠った。

義弘は幕府軍に敗れて12月に討死した。これが「応永の乱」である。

🔵大内家と勘合貿易

大内義弘の弟・盛見(もりみ)によって大内家は滅亡をまぬがれ、周防・長門・豊前・筑前の守護として存続した。

朝鮮との貿易は、明(中国)との勘合貿易に発展し、大内家はこの貿易で巨利を得て再び西国の雄となった。

当時の勘合貿易は、大内家、足利将軍家、管領の細川家が独占していた。

応仁・文明の大乱が起きると、大内政弘は2万の兵を率いて京都に向かい、西軍として戦った。

10年に及ぶ大乱が終わると大内軍は国に帰ったが、この時に政弘は勘合符や原簿を持ち帰った。

その後に幕府に返上し、それは管領に就く細川家の手に渡った。

大乱の時に東軍だった細川家は、西軍にいた大内家を対明貿易から排除したので、大内家はおよそ30年、勘合貿易ができなくなった。

🔵大内義興は将軍・足利義稙をかくまう、義稙を擁して京都を制圧する

足利将軍家と細川家が内紛で分裂抗争した結果、将軍の座を追われた足利義稙(初名は義材)が大内家を頼って山口に来た。
明応9年(1500年)3月のことである。

足利義稙は、明応2年2月に細川政元が起こしたクーデターで将軍の座から引きずりおろされ、各地を流浪した果てに山口に来た。

この時、大内家の当主は大内義興(1477~1528年)になっていたが、義興は義稙を歓迎し、山口の神光寺に住まわせた。

足利義稙は山口に8年も滞在したが、この間に幕府を牛耳る細川政元が暗殺(1507年6月)され、京都の政界は混乱した。

この京都の混乱を、好機到来と見た大内義興は、義稙を擁して上京することにし、近国の守護たちを仲間に誘った。

播磨の赤松義村や、摂津の伊丹元扶らがこれに応じた。

大内義興は1万の兵を率いて、永正4年(1507年)11月に山口を出発した。

細川政元の後を継いでいた細川澄元は、一門の細川高国に足利義稙との和平交渉を命じた。

ところが高国は大内側に寝返ってしまい、大内側が一気に有利となった。

入京した大内軍は、将軍・足利義澄と管領・細川澄元を追放して、足利義稙を将軍に復帰させ、伊賀に逃げていた細川高国を呼んで管領に就けた。

大内義興は義稙と高国を上にいただきつつ、管領代として幕府の実権を握った。

🔵足利幕府の権力者となる大内義興、寧波の乱

永正8年(1511年)に細川澄元は、数万人の軍で京都に攻めてきた。
大内義興や細川高国らは、いったん丹波へ逃げた。

その後、京都の北郊の船岡山で、両者の決戦となった。
足利義稙は2万人、細川高国は3千人、大内軍は8千人だったといわれるが、この8月23日の戦いで大内義興は自ら陣頭に立って夜襲して大勝し、3800もの首をとった。

足利義稙側の勝利となり、その勲功で大内義興は翌年に従三位の官位をもらった。

大内義興は勘合貿易に使う勘合符の保管を委任してくれるよう、将軍・義稙に求めて、永正13年(1516年)に「大内家に一任する」との内書をもらった。

大永3年(1523年)に大内義興は、勘合船3隻を出港させ、正使の宇設謙道たちは寧波(ニンポー)に到着した。

これに対し細川家は、すでに無効の勘合符を手に入れて、鸞岡瑞佐を正使にして明に向かわせた。

寧波に着いた鸞岡瑞佐は、役人に賄賂を贈って工作したので、正規の勘合符を持っているのに大内船は不利に扱われた。

これに怒った宇設謙道は、瑞佐を殺し、民家に火を放ち、明の役人を捕まえて、船を奪って出港した。これが「寧波の乱」である。

これ以後、明は勘合貿易に消極的となった。

🔵大内義興は帰国し、尼子家と戦う

大内義興は、永正5年(1508年)から10年にわたり、管領代として幕政を牛耳った。

しかし永正15年(16年ともいう)8月に京都を離れて山口に帰った。

この理由として、勘合貿易が寧波の乱をきっかけに不振になったこと、京都に兵を率いて駐留する費用が高額なこと、将軍・足利義稙と不和になったこと、幕府の権威がガタ落ちしていたこと、が挙げられる。

当時、戦火で荒廃した京都は復興がはかどらず、文化人たちは山口のような地方都市に 移住していた。

画僧の雪舟も、一時期は山口で暮らしていた。

さらに隣国の尼子家と大友家が、大内家の領土を狙い始めたことも、大内義興が京都を去った一因だろう。
世はすでに戦国時代に突入していた。


BACK【戦国時代(室町後期)の近畿】 目次に戻る

目次【日本史の勉強】 トップページに戻る

home【サイトのトップページ】に行く