戦国大名とは何か(以下は『応仁の乱』歴史群像シリーズ㊲ 谷口研語の記事から抜粋
2026年9月7日に作成)
🔵戦国大名とは
戦国大名とは、「戦国時代」と「大名」を合成した歴史用語である。
16世紀の日本人は、自分たちの時代を「戦国」と呼んでいた。
「大名」とは、広大な所領と多くの被官を持つ武士のことで、中世に用いられた言葉である。
当時の有力武士がみな戦国大名かというと、そうではない。
次の3つに当てはまるのが戦国大名である。
① 幕府や朝廷に従わない
② 荘園制度を経済の基盤にしていない
③ 領土にいる侍や土豪を直接に動員している
他にも分国法の制定や、城下町の建設、鉱山や新田の開発も特徴としてあるが、必要条件は①~③と考えていい。
①については、戦国大名は幕府から役職をもらったり、朝廷から官位をもらっているじゃないかとの反論もあるだろう。
だが戦国大名は、それらの肩書を利用しただけで、幕府や朝廷の規制は受けなかった。(幕府や朝廷の出す命令に対し、従いたくない時は無視した)
戦国大名は、その支配地における最高権力者で、その領国は1個の国家であった。
また戦国大名は、荘園という古い枠をこえて、戸口調査や土地調査を行い、家臣に知行を認めたり、税を徴収したりした。
戦国大名の登場は、応仁の乱が画期となった。
応仁の乱で幕府の統制力はいちじるしく後退し、幕府権力によって維持されていた荘園も弱体化した。
一方で、各地で農民たちが力をつけ、その上層が地待や土豪として村落の支配者となった。彼らは土一揆も起こした。
幕府権力が弱まったため、各地の大地主たちは自力で土地と農民を支配する必要に迫られた。
応仁の乱が11年も続き、その間は各国の守護たちは京都で対陣を続けたから、各地で国人領主たちが独立を始めていった。
🔵戦国大名の3タイプ
戦国大名は、誕生の仕方に3つのタイプがある。
① 守護から戦国大名になる
② 守護代から戦国大名になる
② 国人領主から戦国大名になる
①は、甲斐の武田家や駿河の今川家などがある。
②には、越前の朝倉家や尾張の織田家も含めていいだろう。
③は、国人領主たちの連合が起きて、その中で盟主となった者が戦国大名に成長する例もある。安芸の毛利家はそれである。
相模の北条家や、美濃の斎藤家は、他国から移住してきて、守護や守護代を倒して戦国大名になった。
これは下剋上の典型とされるが、戦国大名としては例外であった。
🔵戦国大名の消滅
戦国大名は、豊臣秀吉が全国を統一した時に消滅した。
豊臣政権は、大名たちの上に立って全国一律の「太閤検地」を行い、