足軽とは何者か(以下は『応仁の乱』歴史群像シリーズ㊲ 伊澤昭二の記事から抜粋
2026年9月13日に作成)
🔵目次
🔵足軽とは
足軽の発生は、平安時代と考えられる。
当時は「下部(しもべ)」と呼ばれ、戦場においては軍役人の下に数人の随兵がつき従ったが、その随兵に1~2人の下部が付いたようだ。
当時の絵図を見ると、軍役人と随兵は馬に乗り、武器を持って鎧を着ている。
それに対し下部は鎧を着ず、戦闘員ではなくて雑用係であった。
足軽は、足白(あしじろ)や足弱(あしよわ)や疾足(しっそく)とも呼ばれた。
彼らはすばしっこく動き回る「足」が売りだった。
平安時代に下部(しもべ)として登場した彼らは、その後は下人(げにん)や雑色(ぞうしき)とも呼ばれた。
『平家物語』には足軽が戦闘員として登場するが、平安時代から南北朝時代までの文献を見ると、足軽は雑用をする非戦闘員の色が濃い。
南北朝の戦乱時代になると、戦争が増えて足軽の需要が増した。
それまでの騎馬戦からゲリラ戦や集団戦に変わったことも、足軽の増加に拍車をかけた。
このため家臣の足軽では足りず、臨時雇いの足軽が出現し、戦闘員としての足軽が登場した。
臨時雇いの彼らは、自分で武器や防具を調達せねばならず、戦場での戦利品も利用した。
応仁・文明の大乱が起きると、下剋上の世相をうけて、無法者の足軽が登場した。
この足軽たちは、放火や強盗をするなど、足軽というよりも悪党である。
乱世になっていたので、武士たちはこうした悪党を戦争があると臨時雇いの足軽として利用した。
その後の戦国時代に入ると、足軽は次第に組織化され、農民出身者が多くなる。
この農民出身の足軽は、税として強制的に徴兵され戦場に行かされる例もあった。
戦国時代の戦争は、鉄砲の伝来により集団戦が主となったので、足軽たちも徐々に訓練されるようになり、足軽の組織化が進んだ。
彼らは弓足軽や鉄砲足軽や槍足軽として集団で訓練された。
そして足軽隊を統率する足軽大将や足軽頭が生まれた。
なお、他にも戦闘員以外の足軽として、矢箱持ちや草履取り、馬取り、小荷駄、中間、若党などがいた。
安土桃山時代になると、足軽は傭兵として訓練され、足軽大将の指揮で集団行動するようになった。
鉄砲が登場したことで、防具は従来の胴丸や腹巻に加えて、鉄(かな)胴丸や鉄腹巻が作られた。
防具は新式の当世具足に変わり、兜の代わりに陣笠も用いるようになった。
集団戦なので胴丸や兜や陣笠には(味方と敵を見分ける)合印を描いた。
この合印の統一を図るため、足軽の防具は支給品となった。