三管四職(さんかんししき)(以下は『応仁の乱』歴史群像シリーズ㊲ 森田恭二の記事から抜粋
2026年9月13日に作成)
🔵目次
🔵三管四職とは
三管四職(さんかんししき)は、室町幕府の管領に就いた細川・斯波・畠山の3家と、侍所頭人(所司)に就いた山名・一色・京極・赤松の4家の総称である。
管領と侍所頭人は、足利幕府において将軍に次ぐ重職であった。
その職を独占した7家を、三管四職と呼ぶ。
管領の名称は、鎌倉幕府の執権や探題を管領と呼んだのに由来するという。
足利幕府が誕生したあと、高師直が執事として将軍を補佐したのが、管領の始まりである。
管領という名称自体は、1362年に斯波義将が就任した時に始まるという。
1398年に畠山基国が就任して以降、細川・斯波・畠山の3家から任命される慣習となり、この3家が三職あるいは三管領と呼ばれた。
この3家は幕臣の中で最高の家格となった。
6代目将軍の足利義教は、将軍の独裁体制をつくったので、管領の権限は縮小した。
義教は、畠山家の分断を謀り、畠山将国を追って持永に畠山家の家督を与えたことで、畠山家が長く内戦する原因も作った。
義教が暗殺されると管領の権限は元に戻ったが、室町幕府が弱くなるにつれて管領の力も弱まっていった。
侍所頭人(所司)は、南北朝の時代は有力な守護が短期ずつ任命されていた。
だが1394年以降は、山名・一色・京極・赤松・土岐の5家から選ばれることになり、やがて土岐が没落して4家に限定された。
🔵管領に就いた3家の略歴
細川家は、足利家の一支族で、足利義季が三河国の細川村に移住してこれを姓にしたのが始まり。
足利幕府ができると、その一族として畿内周辺の地の守護になった。
一時は9ヵ国もの守護となったが、家督争いの内紛で没落していった。
斯波家は、足利家氏が陸奥の斯波郡に移住して、それを姓にしたのが始まり。
足利幕府ができると、斯波家は越前や若狭の守護になった。
斯波義重は、応永の乱の時に大内家を討った功績から、尾張と遠江の守護職を与えられた。
この後に斯波家は家督争いを起こし、それが応仁の乱の一因となった。
応仁の乱の後に、本拠地の越前を守護代の朝倉家に奪われ、遠江を今川家に奪われ、最後には尾張も織田家に奪われて滅亡した。
畠山家は、武蔵国秩父郡の豪族だったが、足利尊氏が幕府を開くと畠山高国は奥州探題に任命された。
畠山国清も尊氏から紀伊守護に任命された。
国清の弟の義深は、能登、越中、河内、和泉などの守護となり、その子・基国は明徳・応永の乱で功績をあげ、山城と紀伊の守護になり、管領に任命された。
だが畠山家も家督争いで内戦が長く続き、衰退していった。
🔵侍所頭人(所司)に就いた4家の略歴
山名家は、新田義範を祖とし、南北朝時代に一族で11ヵ国の守護職につくほど力を付けた。
しかし明徳の乱で一族が争い、伯耆と因幡の2国まで減った。
その後に勢力を回復し、山名持豊(山名宗全)は1440年に侍所頭人に就いた。
山名宗全は細川家と対立し、応仁・文明の乱で細川家と戦った。
完全の死後、山名家は衰退していった。
一色家は、足利公深が三河国の吉良荘・一色に移住したのを祖とする。
公深の子・範氏は、足利尊氏に従って戦い、丹後と若狭の守護に任命された。
一色義貫は、6代将軍・足利義教によって自殺させられた。
京極家は、近江守護となった佐々木信綱の四男・氏信を祖とする。
京極家(佐々木家)は佐々木高氏(道誉)の時に、足利幕府の創立において活躍し、近江など5ヵ国の守護となった。
その子・高詮の時に、侍所頭人に任命され、四職家の1つとなった。
京極家は近江において存続し、一時は没落したが、豊臣秀吉の下で大名となった。
赤松家は、播磨の豪族の出身で、赤松則村が足利尊氏に従って活躍し、播磨守護に任命された。
その後に備前と美作の守護にもなり、四職家の1つになった。
1441年の嘉吉の乱で、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺すると、赤松家は幕府の討伐対象となり滅亡寸前まで行った。
赤松政則が将軍・足利義政の許しを得て、赤松家に再興した。
赤松政則は侍所所司に任命され、その家臣の浦上則宗は所司代として活躍した。