山名家、明徳の乱、山名宗全(以下は『応仁の乱』歴史群像シリーズ㊲ 太田順三の記事から抜粋
2026年9月13日に作成)
🔵目次
🔵山名家は大勢力になる
山名家は、細川家などの足利一門(足利家の血筋)とは異なり、新田家の庶流とされる。
新田義範が上野国にある山名郷に移住して、山名三郎を名乗ったのが始まりという。
その後、山名時氏は元弘・建武の乱が起きると、本家の新田義貞には従わず、足利尊氏に附いて戦った。
ちなみに山名時氏の母は上杉重房の娘で、重房の子・頼重の娘である清子が足利尊氏・直義兄弟の母である。
山名時氏は、足利幕府ができると伯耆・丹波・若狭の守護に就き、侍所頭人に任命された。
やがて足利尊氏と弟・直義は対立したが、山名時氏は直義方につき、直義が殺されるとその養子・直冬を擁立して南朝に属した。
1363年に山名時氏は、5ヵ国の守護に任命されるのを条件に、将軍・足利義詮に服属した。
そして丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の守護となった。
時氏の死後も山名家は勢威を増していき、山名一門で12ヵ国の守護を任されるまでになった。
日本全国66ヵ国のうち、6分の1を超える12ヵ国を領有したことで、世に「6分の1家衆」と呼ばれた。
🔵将軍・足利義満の山名家弾圧、明徳の乱
細川家は山名家の大出世を妬み、将軍・足利義満と謀って、山名家を弱めようとした。
足利義満は山名家の拡大に危機感を持っていたので、これに同意した。
1389年5月に、山名師義(時氏の嫡子)から山名家の惣領職を継いでいた時義(時氏の5男)が亡くなった。
時義の嫡子の時煕が惣領職を継いだが、これに納得しない者が出た。
これを好機と見た足利義満は、明徳元年(1390年)3月に、「時煕・氏幸の兄弟が私の命令に従わない」と言って、同じ山名家の満幸・氏清(時氏の4男)に討たせた。
時煕と氏幸が敗走すると、義満は但馬を氏清に与え、氏幸の持っていた伯耆と隠岐は満幸に与えて、山名家の内紛をあおった。
翌1391年になると、足利義満は今度は山名満幸・氏清の弾圧に動き、満幸を京都から追放した。
怒った山名満幸は、和泉の堺にいる山名氏清と共に挙兵し、これに紀伊守護の山名義理や因幡守護の山名氏家も加わって京都に進撃した。
しかしこの山名軍は、幕府の大軍に京都で敗れ、氏清は戦死した。
以上が「明徳の乱」である。
この敗戦の結果、山名家の所領は大削減され、山名時煕の但馬、山名氏幸の伯耆、許された山名氏家の因幡の3ヵ国に減った。
🔵応永の乱で山名時煕が活躍
明徳の乱で活躍し所領を増やした大内義弘は、大勢力となったことで将軍・足利義満から危険視された。
そのため大内義弘は、応永6年(1399年)10月に大軍を率いて和泉の堺に入り、挙兵した。
これが「応永の乱」である。
応永の乱では、丹波で山名氏清の嫡子・宮田時清が大内義弘に味方して挙兵した。
山名時煕は出陣して宮田時清を破り、次いで堺にこもる大内義弘を攻めて戦功をあげた。
その結果、時煕は備後の守護に任命され、同じ一族の山名氏利が石見守護、山名満氏が安芸守護となった。
その後、山名時煕は1414年に侍所頭人に就任し、将軍が足利義持と足利義教の時代は宿老として重きをなした。
時煕の三男の持豊(宗全)は、1433年8月に家督を譲られ、但馬・伊賀・備後・安芸の4ヵ国の守護となった。
🔵山名宗全
山名持豊(山名宗全)は、『但馬村岡山名家譜』によると応永11年(1404年)5月29日に生まれた。幼名は小次郎。
父は山名時煕(常煕)である。
母は山名氏清の娘・安栖無染で、奥州の女だったらしい。
小次郎は、1413年1月に数え年10歳で元服し、将軍・足利義持の一字をもらい持豊と名乗った。