六角定頼の生涯(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 徳永真一郎の記事から抜粋
2026年9月23日に作成)
🔵目次
🔵六角定頼は家督を継ぐ
六角定頼は明応4年(1495年)に、六角高頼の次男として生まれた。
六角家は近江に領地をもつ豪族であった。
父・高頼は応仁・文明の乱では西軍に属して戦った。
定頼は5歳の時に京都の相国寺に入り僧となった。
これは兄・氏綱がいて、六角家の後継ぎになれないからである。
ところが定頼は17歳の時、父の許可もなく勝手に還俗して、定頼と名乗り、足利幕府で管領をつとめる細川高国の下に入った。
定頼は永正8年8月の船岡山の合戦で活躍した。
この合戦の結果、細川高国と大内義興に担がれた足利義稙は将軍に返り咲いた。
六角家の重臣たちは、戦争の得意な定頼に注目し、病弱で右足の不自由な氏綱を隠居させて定頼に家督を継がせるよう、高頼に助言した。
それで定頼は、兄・氏綱を補佐するという名目で、永正13年に近江に帰国した。
永正15年に氏綱が27歳で早世すると、定頼が家督を継いだ。
🔵六角定頼の支援する細川高国が足利義晴を担いで復権する
足利幕府では、管領となった細川高国の独裁に嫌気がさした将軍・足利義稙が、高国と不仲になった。
すると細川高国は、前将軍・足利義澄の遺児である亀王丸を新しい将軍にしようと画策を始めた。
永正16年11月に、細川高国は同族の細川澄元と合戦して敗北し、翌17年2月に足利義稙を擁して近江へ逃げようとした。
しかし義稙は「私は細川澄元と和睦する。お前一人で近江へ去るがよい」と言って、高国と手を切った。
それで高国は、自分だけで近江の六角定頼を頼っていった。
永正17年10月29日に六角高頼(定頼の父)は59歳で病死した。
復権を目指す細川高国は、播磨守護の赤松義村に養育されている亀王丸を担いで上洛しようと計画し、播磨守護代の浦上村宗と手を組んだ。
そして永正18年7月に浦上軍3万と共に京都へ進軍した。
将軍・足利義稙は逃亡し、亀王丸は名を義晴に改めて、12月25日に将軍位に就いた。
義晴はまだ11歳だった。
なお永正18年8月に、大永に改元された。
足利義晴の幕府は、細川高国が管領に就任して最高権力者になった。
大永2年(1522年)3月に、六角定頼は2万の兵を率いて上京し、新政権の支持を明らかにした。
🔵近江北部で浅井亮政が台頭、六角家の由来
幕府の将軍が足利義晴に交代した頃、近江では郷士だった浅井亮政が台頭し、近江北部の領主である京極家の実権を握った。
六角定頼が近江から追放した京極高清・高慶の父子を、浅井亮政は自らの居城である小谷城に迎え入れ、六角家と戦う姿勢を見せた。
怒った定頼は亮政を攻めたが、亮政は越前の朝倉家の援軍を得て反撃した。
定頼は亮政と和睦し、この時から浅井家は江北(近江北部)の支配者となった。
ここで六角家の由来を書く。
かつて源頼朝が平氏と戦った「源平の戦争」の時、佐々木一族が大活躍して、鎌倉幕府ができると16ヵ国の守護職をもらった。
その後、承久の乱などの軍功で、佐々木家は朝廷から京都の六角の館と京極の館をもらった。
これを機に、佐々木泰綱が六角氏を、佐々木氏信が京極氏を名乗り始めた。
六角氏と京極氏は、佐々木源氏の二大主流となった。
このように六角家と京極家は同族なのだが、争いを始めて、その同族争いは数百年に及んだ。
上記した六角定頼と京極家の争いもその1つである。
🔵六角定頼は将軍・足利義晴を匿う
大永7年(1527年)に、三好元長と手を組んだ柳本賢治(かたはる)が京都へ攻めてきた。
管領の細川高国は六角定頼にも援兵を求め、定頼は馬淵と三雲の2人に3千の兵を従わせて加勢させた。
だが2月に幕府軍は敗れ、高国は将軍・足利義晴を連れて近江へ逃げてきた。
定頼は将軍一行を長光寺に匿った。
細川高国や六角定頼たちは、10月に軍を率いて上京し、三好耳を和泉の堺まで退却させるのに成功した。
細川高国と細川晴元(三好元長の主君)は何度か交戦し、享禄4年(1531年)6月に三好・赤松軍と細川高国軍は天王寺で決戦した。
高国は敗れて捕まり、6月8日に自殺させられた。
高国が敗死したので、定頼は足利義晴を近江へ再び連れていき、桑実寺に住まわせた。
天文3年(1534年)秋までの3年間、義晴はここを仮の幕府とした。
🔵細川晴元は本願寺軍と法華宗軍を利用し戦わせる
細川晴元の家臣の木沢長政は、享禄4年(1531年)に畠山領の河内・飯盛山城を勝手に 占領した。
これに怒った畠山義宣は、飯盛山城にいる木沢を攻めた。
木沢は細川晴元に援軍を求めたが、晴元は本願寺を利用しようとした。
晴元は本願寺を率いる証如(17歳)に対し、「畠山義宣を攻め殺し、三好元長も討ってくれないか」と依頼した。
三好元長は、法華宗(日蓮宗)の大檀那で、本願寺の寺領を荒らしていた。
証如は二つ返事で引き受けて、3万人の門徒を率いて出陣した。
享禄5年(7月に天文に改元)6月15日に、証如の率いる本願寺軍は、飯盛山城を攻めている三好遠江守らの連合軍を急襲した。
敗れた三好遠江守の兄弟は討死し、畠山義宣も自害した。
本願寺軍は木沢軍と共に、堺にいる三好元長を攻め、6月20日に元長は抗しきれず自殺した。
あまりに強力な本願寺軍を見て、これを利用した細川晴元は怖れを抱いた。
本願寺軍が大和に入って興福寺を焼いて略奪すると、晴元は本願寺と手を切ることにした。
絶縁状を送られた証如は、8月2日に堺の細川晴元を攻めた。
晴元は、「こうなったら本願寺のライバルの法華宗の手を借りるしかない」と考え、法華宗と接触した。
これは宗教同士を戦わせて漁夫の利を得る策でもある。
法華宗の信者たちは、細川晴元の誘いに乗って一揆を起こした。
この一揆に六角定頼が加勢した。
定頼はかねてから近江で一向一揆(一向宗の一揆、本願寺の一揆)に悩まされており、特に顕証寺の一向一揆に苦しめられていた。
だから定頼は8月11日に顕証寺を襲い、焼き払った。
これより先、法華宗徒の4千人余りが京都で一向宗の寺を次々と焼き払った。
🔵六角定頼と法華宗徒は山科本願寺を焼き落とす
天文元年(1532年)8月23日に六角定頼や法華宗徒は、4万人の大群で一向宗の総本山である山科本願寺を包囲した。
そして24日に六角定頼の号令で一斉攻撃が始まった。
山科本願寺は、蓮如が5年がかりで完成させた城で、城内には寺内六町と呼ばれる商店街が賑わっていた。
この城が攻め落とされ、一向宗徒たちは虐殺された。
証如は命からがら脱出し、大坂御坊(のちの石山本願寺)に逃げ込んだ。
山科本願寺はことごとく炎上した。
中納言の鷲尾隆康の日記『二水記』によると、山科本願寺を灰にして京都に凱旋してきた兵たちは、誰もが略奪した金銀財宝を手にしていた。
それでも焼跡にはまだ金銀が残っており、これを漁る人々が数日間も焼跡を徘徊したと言われている。
半年後の天文2年(1533年)2月15日に、今度は一向宗徒が細川晴元を攻撃し、晴元は淡路へ敗走した。
晴元は証如に詫びを入れ、法華宗徒を京都から追放すると約束した。
晴元は9月20日に京都に戻り、法華宗徒と戦い始めた。
🔵六角定頼は将軍・足利義晴の復活に協力し、幕府の実力者となる
天文3年(1534年)6月8日に、六角定頼は匿っている将軍・足利義晴(24歳)を、元関白・近衛尚通の娘と結婚させた。
そして9月4日に義晴を入京させた。
この功績により、六角定頼は管領・細川晴元に次ぐ幕府の実力者となった。
かつて法華宗と組んで山科本願寺を焼いた六角定頼は、こんどは本願寺と組んで法華一揆を討った。
天文6年に定頼は、長女を細川晴元に嫁がせて姻戚関係を結んだ。
定頼が正式に近江守護職に任命されたのは、この年の8月である。
三好元長の長男の範長(のちの三好長慶)が、細川晴元と三好政長を討とうとして戦争になった時、六角定頼は将軍・義晴と共に調停した。
晴元が独裁を強めて義晴と不和になった天文12年の夏も、定頼がこれを講和させた。
天文15年12月に、将軍・義晴の嫡男・菊幢丸(きくどうまる)が元服式を行った。
将軍家の嫡男の元服では、加冠役(えぼし親)はその時の管領がつとめるのが慣例であった。
しかし管領の細川晴元は出陣中で、六角定頼が管領代に任命されて加冠役をつとめた。
元服した菊幢丸は義藤(のちに義輝)と名を改め、11歳で将軍職に就いた。
六角定頼は天文21年1月2日に病没した。