タイトル松永久秀、三好義賢

(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)

🔵松永久秀

1510~1577年。享年68歳。

前半生は不明で、京都の商人、摂津の百姓、阿波の出身といった説がある。

三好長慶に右筆として仕え、弟の松永長頼と共に戦功をあげて出世した。

1559年8月に大和の信貴山城に入り、大和の攻略に着手。
11月頃に大和を平定し、長慶から大和国を与えられた。

久秀は多聞城を築き、京都の三好長慶の政権において三好一族に準じる存在となった。

1563年に三好長慶の嫡子である義興が死去した。
これは久秀が毒殺したとの説もある。

翌年に長慶が病死すると、長慶の弟の十河一存の子で、長慶の養子になっていた義継が後継者となったが、実権は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と久秀が握った。

久秀は三好三人衆と謀り、1565年5月に将軍・足利義輝を暗殺した。

1568年9月に織田信長が足利義昭を担いで上洛すると、久秀はいち早く降伏し、大和国を安堵された。

1572年に武田信玄と結んで独立を図ったが、73年に信玄が死んだので信長に降伏した。

1577年10月、再び信長に背いて信貴山城にこもったが、攻められて自害した。

🔵三好義賢

1526~1562年。享年37歳。号は実休。

三好長慶の弟である。
長慶が京都で活躍している間、阿波に居て細川持隆に仕え、伊予と讃岐を攻略した。

長慶の命令で、淡路の安宅冬康や讃岐の十河一存らと共に、畿内に出陣することもあった。

天文22年(1553年)6月に義賢は、主君の細川持隆を襲って殺し、持隆の子・真之を擁立して実権を握った。

十河一存が和泉国・岸和田城主になると、義賢は讃岐も統治した。

1560年11月に義賢は高屋城主に任命され、河内国も任された。

1562年3月、義賢は根来衆との戦争で戦死した。

余談だが、三好氏の分国法『新加制式』は、義賢の家臣で、三好長治(義賢の子で後を継いだ)を補佐して阿波・讃岐を統治した篠原長房が作成したと言われている。

(以上は2025年10月20日に作成)


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