タイトル室町幕府の基礎知識

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズから抜粋
2026年6月2日に作成)

足利氏の幕府は、一般に「室町幕府」と呼ばれるが、京都の室町に幕府を置いたのは3代目将軍の義満のときからである。

義満のほかに「室町殿」と呼ばれた将軍は、じつは義教と義政の2人にすぎない。

足利将軍を補佐する大職に、「三管四職」がある。

管領に選ばれる斯波・細川・畠川の3家と、侍所所司に選ばれる赤松・一色・山名・京極の4家のことだ。
彼らは交替で就任した。

この7家は名門として、権勢をふるった。

その一方でこの家たちは、足利将軍家と同じく、家督をめぐって争いが絶えなかった。

足利幕府は、有力な守護大名の連合政権の観があったが、応仁・文明の大乱(長期の戦争)の後は幕府は弱くなり、京都にいる地方政権となってしまった。

戦国時代は、京都に住む天皇家も生活が苦しくなった。

後土御門天皇が死んだ時は、死後43日目にようやく葬式が行われた。

後を継いだ後柏原天皇は、即位の礼(式)をあげたのは即位してから21年目のことだった。。

足利将軍(足利幕府)の権威が失墜したのは、1441年の「嘉吉の変」で6代目将軍の足利義教が暗殺されたことと、8代目将軍の義政の時に「応仁・文明の乱」(1467~77年)があったからだ。

「嘉吉の変」の2年前には、関東公方の足利持氏が滅亡していた。

嘉吉の変について、伏見宮・貞成の日記『看聞御記』はこう書いている。

「公方(将軍の義教)は、赤松満祐を暗殺する計画を立てていたから、満祐に殺されたのは自業自得という他ない。

それにしても、こんな無様な犬死をする公方なんて前代未聞だ。

公方が殺されても、満祐を追討するわけでもなく、切腹して殉死するわけでもない。
皆が未練を言うばかりだ。」


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