タイトル赤松満祐・教康の父子と嘉吉の変

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 安西篤子の記事から抜粋
2026年6月2~3日に作成)

🔵赤松満祐と教康の父子とは何者か

1441年6月に起きた「嘉吉の変」は、赤松満祐と教康の父子が足利将軍・義教を招いて殺した、大事件である。

この時、赤松満祐は61歳だった。
彼は14年前に剃髪し、性具入道と号していた。三尺童子とあだ名されるほどの短躯で醜男だった。

その嫡男の教康は19歳で、2人は密談を重ねて将軍暗殺に成功した。

赤松家は、播磨国の赤松村を本拠とする一族で、足利尊氏に仕えて活躍したことで足利幕府で重用される名門の家となった。

ところが足利将軍が6代目の義教になると、当主の赤松満祐は軽く扱われ始めた。

嘉吉の変の直前に、赤松満祐・教康の父子が持つ(守護大名をしている)領地である、播磨・美作・備前の3国を将軍・義教が取り上げて、赤松貞村に与えるとの噂が出た。

すでに前年に、義教は満祐の弟・義雅の所領を取り上げて、赤松貞村に与えていた。

赤松貞村は美男で、男色(ゲイ)の義教に寵愛されていた。

義教は「貞村を播磨守護にする」と語り、満祐から3国を奪って貞村にあげようと考えていた。

これに赤松満祐・教康が怒りを爆発させたのである。

赤松満祐は、他にも怒る理由があった。
彼の妹は、将軍・義教の御所で働いていたが、9年前に同僚2人と共に罪を問われて殺された。

満祐はこの時、怒って拠城の白旗城にたてこもった。
だが幕府軍に攻められ降伏し、また幕府に仕えていた。

じつは赤松満祐は、もっと以前から幕府と揉めていた。

足利義教の前将軍の足利義持は、1427年10月に播磨守護の赤松義則が死ぬと、その遺領を召し上げて赤松貞持に与えようとした。
貞持は義持の寵童の1人だった。

義則の嫡男の満祐はこれに怒り、京都の居邸を焼いて播磨に帰り、白旗城に籠った。

将軍・義持は討伐しようとしたが、重臣の細川持元らが止めて、横暴な振舞いをする貞持が悪いと説いた。

義持は貞持をかばいきれず、貞持に切腹を命じた。

満祐は剃髪して性具入道と名乗り、謹慎の意をあらわしたとして許された。

🔵足利義教の悪政

6代目将軍の足利義教は酷薄な独裁者で、横暴な人事を繰り返した。

その具体例をあげると、学者の東坊城益長が義教の前で微笑した時、これが気に食わず、将軍を軽んじたとして所領を召し上げて閉門を命じた。

待女の取次に間違いがあった時、その侍女を打擲して髪を剃り落させ、父親の所領まで没収した。

義教の妻は日野重子だが、その兄・義資も、義教の怒りを買って謹慎となった。

重子が子を産んだ時、公家や僧侶たちがお祝いを述べに日野邸を訪れて義資とも会ったが、義教はこれに怒り、訪れた者を調べ上げて60人ほどを処罰した。

(※現代に生きていたら精神鑑定を受けるレベルの異常さと思う)

義教は世人が恐れていた比叡山にも遠慮せず、1435年に攻めている。

このとき比叡山の僧兵たちは根本中堂に火をかけ、高僧24人が自殺した。

人々がこの件を批判すると、義教は「比叡山のことについて是非を言ってはならない(私の政治に是非を述べてはいけない)」と命じた。

ついついこの件を話題にした商人は、捕まって首を斬られた。

義教は、大名の後継ぎ問題にも介入した。

1440年5月に若狭・丹後の守護大名をする一色義貫を討伐させて殺すと、その遺領を義貫の息子の義直ではなく、甥の教親に与えた。

さらに伊勢守護の土岐持頼も、義教に攻め滅ぼされた。

赤松満祐と教康の父子は、こうした状況を見て、「自分たちも滅ぼされる前に、いっそのこと義教を殺そう」と決意したのである。

🔵嘉吉の変 (将軍・義教の暗殺事件)

鎌倉にいる関東公方の足利持氏は、将軍の地位を狙っていた。
彼は自分ではなく義教が将軍に選ばれたことに不満たらたらで、公然と幕府に反抗していた。

そこで1438年8月に義教は、関東に出兵して持氏を討伐した。
敗れた持氏は翌年2月に自刃した。これが永享の乱である。

持氏の2人の幼い男児は下総の結城氏朝を頼り、氏朝は2児を擁して1440年に挙兵した。

幕府軍は氏朝らのいる結城城を包囲し、1441年4月に落城させて、2児を捕まえて処刑した。

足利持氏とその遺児を殺して、関東を制圧した足利義教は上機嫌になった。

そこに赤松教康から「祝賀の宴を開きますので、我が屋敷まで来て下さいませ」と誘いがきた。

義教はこれに応じて、1441年(嘉吉元年)6月24日に、大勢の者を従えて赤松邸にやって来た。

広大な敷地の赤松邸にて酒宴が開かれ、舞台上では猿楽能が始まった。
演者は義教がひいきにしている音阿弥である。

酒宴の中、赤松家の武士たちが乱入してきて、義教を襲った。
義教を初めに斬ったのは安積行秀といわれている。

傷ついた義教の体を、武士たちはめった斬りにし、教康が首を斬り落とした。

一緒にいた諸大名たちも襲われ、京極高数と山名煕貴が斬り殺された。

三条実雅と大内持世は負傷したが逃げのびた。

赤松父子が憎んでいた同族の赤松貞村は、初めからこの酒宴は怪しいと疑っていたので、いち早く塀を乗りこえて逃げのびた。

管領の細川持之も塀を乗りこえて逃げ、家来たちに助けられて自邸へ戻った。

持之は反逆者の赤松父子を討とうとせず、自邸にこもった。襲撃されるのを恐れたのである。

諸大名たちが動揺し怖がって動かないのを見た赤松父子は、6月29日に屋敷に火をかけて国元へ引きあげた。

引きあげる際、義教の首を赤松教康は刀に刺して掲げて行ったが、腐乱がひどいので摂津の崇禅寺に捨てて去った。

京都をあとにする赤松軍を止める者はいなかった。

足利幕府の動揺は激しく、赤松討伐の軍が京都を出発したのは7月28日と、義教暗殺から1ヵ月以上も経ってからであった。

山名軍に攻められ敗北必至の赤松満祐は、9月9日に教康に言った。
「わしはここで死ぬ。お前は城を脱出して伊勢へ逃げ、赤松家を絶やすな」

満祐の弟・義雅が自刃した翌日、満祐は城に火を放ち自殺した。

教康は父に言われたとおり伊勢に逃げたが、伊勢の国司は匿おうとせず、教康を捕まえて殺した。9月29日のことという。

一説には教康は生きのび、1455年に播磨で挙兵したが、山名宗全に攻め殺された。

義雅の子は僧侶となって生きのび、のちに還俗して政則という息子をもった。

赤松家の遺臣である岩見雅助は、藤原実光に仕えたが、実光から「手柄を立てれば赤松家は再興されるぞ」とはっぱをかけられた。

それで岩見は吉野山に潜行して、南朝の者が持つ神璽を奪ってきて、1458年8月に幕府に献上した。

これに喜んだ将軍・足利義政は、赤松政則に再興を許して、加賀半国を与えた。

だが岩見は山名宗全に憎まれて殺された。


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