タイトル畠山一族の内紛と、応仁・文明の乱

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 左方郁子の記事から抜粋
2026年6月20日、7月4日に作成)

🔵目次

畠山一族の内紛。畠山義就と畠山政長の抗争など

畠山家の内紛に日野富子や山名宗全も介入し、戦争となる

応仁・文明の乱が始まる

応仁・文明の乱が終わる。その後の畠山義就と畠山政長

🔵畠山一族の内紛。畠山義就と畠山政長の抗争など

同じ一族でありながら、畠山義就と畠山政長は仇敵同士に終始した。

この2人は、畠山宗家の家督をめぐって抗争に明け暮れた。

この抗争の原因は、2人の父親である畠山持国にあった。

守護大名で数か国の領地を持つ畠山持国は、子がないので、異母弟・持豊の子である弥三郎を養子にした。

ところがその後になって、持国の側室が男子を生んだ。それが義夏、のちの義就である。

なお義就の母が何者なのかは諸説あり、身分の低い女だったともいわれる。

畠山政長については、持国の養子となった弥三郎が大人になった姿だと言われてきた。
しかし最近の研究では、義就より5年後の1442年に持豊の子として生まれたとの説が有力になっている。

従って義就の最初のライバルは、持豊の嫡子であり政長の兄にあたる、弥三郎だった。

畠山宗家の後継ぎを狙う、持豊・弥三郎の派閥と、持国・義就の派閥は、対立を深めた結果、1454年についに戦争に至る。

この年に畠山持国は、弥三郎派に謀反の企てありとして、弥三郎派の重臣を切腹させた。

この事が足利幕府の管領をつとめる細川勝元の介入を招き、勝元の支援をうけた弥三郎派によって畠山持国は引退させられ、息子の義就は伊賀に逃亡した。

畠山義就は直ちに反撃に出て、将軍・足利義政を味方につけ、弥三郎派を京都から放逐した。

翌1455年に持国が病死すると、実子の義就が後を継ぎ、山城・河内・紀伊・越中の守護となった。

1459年の秋頃に、畠山弥三郎が急死した。
すると弥三郎派は、弟の政長を担ぎ出した。

このとき義就は23歳、政長は18歳である。

1460年に畠山政長は、管領・細川勝元や伊勢貞親(将軍・足利義政の育ての親)らに支援されて、将軍・義政から畠山宗家の家督を認められた。

そして幕府は、義就追討令を出した。

畠山義就は、畠山政長と幕府の連合軍に攻められ、大和の龍田神社前の合戦で大敗した。

このとき義就は自殺しようとしたが、重臣たちに説得されて南河内の嶽山城にこもった。

嶽山城は金剛山を後ろに控えた要害で、幕府は大軍を動員して7度も攻めたが、これを落とせなかった。

義就の要害にこもってのゲリラ戦は、かつての楠木正成をしのばせたが、それを見た山名宗全は義就を味方につけようと誼(よしみ)を通じはじめた。

この頃になると山名宗全と細川勝元は対立し、山名は日野富子(将軍・義政の妻)と組んで、細川勝元・畠山政長の失脚を狙うようになっていた。

🔵畠山家の内紛に日野富子や山名宗全も介入し、戦争となる

山名宗全は、日野富子に畠山義就の赦免を求めた。

日野富子は実子の足利義尚を次の将軍に就けようとしており、義就を味方にしようと考え、山名の求めに応じた。

富子は夫である将軍・義政に、畠山義就の赦免と、管領に就いている畠山政長の罷免を求めた。
義政は、これを受け入れた。

こうして赦された義就は1466年12月25日に5千の兵を率いて京都に入った。

畠山政長は応戦の準備に入り、管領の地位を利用して商人たちから銭(戦費)を徴収した。
ところが徴収に応じない商店に放火したところ、等持院に延焼した。

等持院は足利尊氏の菩提寺で、そこを焼失させたことに義政は激怒した。

年の明けた正月2日(1467年1月2日)、政長に出仕停止の命令が下った。

そして8日には政長は管領職を解任され、斯波義廉が新たに管領に就いた。

政長を支援してきた細川勝元は、京極持清らと謀って、義政に政長の復権と義就討伐を懇願した。

これに対し山名宗全は、義政に政長を討伐するよう迫り、花の御所(足利将軍の邸宅)を山名軍が包囲した。

足利義政・将軍は、細川勝元と山名宗全の権力闘争に困りぬき、2人に対して「自分の言うことに従わなければ、私は自殺するかもしれない」と告げた。

これには細川も山名も驚き、「このたびの畠山一族の抗争に我々は介入しない」と約束した。

畠山義就は、この状況を畠山政長との一騎討ちの許可が出たに等しいと考えて、「政長を攻めて勝負を決するぞ」と勇み立った。

畠山政長のほうも覚悟を決め、1月17日に京都の自邸に火をかけて、上御霊神社の森に陣を張った。

上御霊神社は、内裏(だいり。天皇の邸宅)から1200mの距離にある。

内裏の南にある政長の屋敷から炎が上がると、後花園上皇と後土御門天皇は慌てて牛車に相乗りして、花の御所(足利将軍の邸宅)に逃げ込んだ。
将軍のいる花の御所なら安全だと考えたのだ。

畠山義就は上御霊神社を囲んで、雪やあられの吹雪の中、攻め込んだ。

この時、中立の取り決めを無視して、朝倉軍と山名軍が義就に加勢した。

畠山政長は、自分のほうにも細川軍の加勢があると期待したが、細川勝元は一兵も動かさなかった。

援軍を請う政長を無視したことで、勝元は非難の的になった。
京都の人々はその振舞いを見て嘲った。

敗れた畠山政長は、上御霊の森に火を放って逃げた。

この時に上御霊神社は焼失し、焼け跡には黒焦げの死体が累々と転がっていた。

🔵応仁・文明の乱が始まる

戦争に勝った畠山義就と、それを支援した山名宗全たち大名は、有頂天になり、連日連夜の酒宴に明け暮れた。

慢心した義就と山名宗全は、自分の軍勢の大半を帰国させてしまった。

3月5日に、大正2年は応仁元年に改元された。

応仁元年(1468年)の5月26日の早朝に、西軍(山名宗全・畠山義就派)と東軍(細川勝元・畠山政長派)は京都の各所で戦いを始め、27日の夕方まで激戦が続いた。

この「上京の合戦」で、京都の上京はほとんど焼き尽くされた。
「応仁・文明の乱」の始まりである。

6月に入ると畠山義就の子・義豊が、紀伊・河内の兵を率いて参戦し、山名宗全の領国からも3万余りの兵が駆けつけた。

さらに西軍には大内政弘が加わり、一気に西軍が強化された。

8月23日に船岡山に陣を構えた西軍は、反撃に移った。

この時、幕府は細川方(東軍)が押さえており、細川勝元は将軍・ 足利義政から「山名宗全討伐の命令書」をもらうのに成功した。
この山名討伐令に対し、義政の妻・日野富子は大反対だった。
(※日野富子は山名宗全と通じていた)

この8月23日に、東軍には痛恨の一撃があった。
各目上の総大将になっていた、足利義視(※足利義政の養子)が伊勢へ逃亡してしまったのである。

驚くことに義視は、後になって西軍に迎えられる。

9月1日に西軍は、東軍方の三宝院を改めた。
ここは武田信賢が守っていたが、西軍の5万の大軍が攻め落とした。

同月13日には、土御門天皇の内裏を西軍が占領した。
この「三宝院の合戦」でも、畠山義就軍の奮戦が際立った。

この後、9月~10月にかけて「東岩倉の合戦」が行われ、一応は西軍が勝ったが、東山一帯の古寺名刹のほとんどが焼けて灰になった。

これと並行して「相国寺の合戦」も行われた。

相国寺の合戦は、東軍方の相国寺を西軍が攻めたもので、寺僧の一部が西軍に内応して放火したのもあって、七層の塔を一基だけ残して全焼した。

勝った西軍は、相国寺の焼け跡に陣を張り、花の御所を攻め立てた。

ところが10月4日に畠山政長の率いる東軍が激戦の末に勝ち、相国寺を奪回した。

この「相国寺の合戦」では、死者は両軍合わせて数千人を超えた。

応仁元年は、西軍の優勢のうちに暮れた。

翌応仁2年は、元旦から東軍が西軍の本陣(西陣)に攻め込み、「西陣の合戦」が行われた。

だがここまでの両軍の被害が大きすぎたからか、「相国寺の合戦」の後は両軍ともあまり攻めずに、膠着化した。

京都では戦争は膠着化したが、京都の周りでは激戦が続いた。

この京都郊外での戦争は、ほとんどが畠山義就が仕掛けたものだった。

勝龍寺城に陣取った義就は、近くの城や館を攻め取った。
義就は自由奔放なゲリラ戦を行い、郷村をも攻撃したので、土豪たちも戦争に巻き込まれた。

畠山義就と畠山政長が戦い続ける中、土豪たちは自らの利益のために、義就に付いたり政長に付いたりし始めた。

🔵応仁・文明の乱が終わる。その後の畠山義就と畠山政長

応仁・文明の戦乱は、収拾がつかない中で文明5年(1473年)に山名宗全と細川勝元が 病死した。

すると戦線を離れて帰国する大名が続出した。

文明6年になると、山名政豊(山名宗全の後継者)と細川政元(細川勝元の後継者)が会談し、和平への期待が高まった。

しかし西軍の畠山義就が強硬に反対して、和平は実現しなかった。

だが畠山義就も文明9年9月になると、戦線離脱して河内に引きあげた。

義就が河内を平定に向かった時に、応仁・文明の乱はようやく終わった。

この大戦争は、始めたのも終えたのも畠山義就だった。

形の上では東軍の勝利となったが、義就は負けた気はしなかっただろう。

畠山義就と畠山政長の抗争はまだ続き、文明17年(1485年)には対陣して、それが60日にも及んだ。

2人の抗争を終わらせたのは、「山城国の一揆」だった。

文明18年に一揆側の要望で、義就も政長も山城国から追放された。


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