タイトル足利義政・日野富子の夫妻の悪政
応仁・文明の大乱を起こす

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 島津隆子の記事から抜粋
2026年7月5&21日に作成)

🔵目次

土倉という悪徳商人が跋扈した、悪政の時代

若い足利義政が将軍に。日野富子が妻となる

足利義政・富子の夫妻の悪政

将軍家の後継ぎ争いから、応仁・文明の大乱に

大戦争の中で酒に溺れる将軍家と天皇家、義政と富子の別居

自分とカネのことしか考えない日野富子

🔵土倉という悪徳商人が跋扈した、悪政の時代

日野富子(1440年~1496年)の生きた室町幕府の時代は、男はしょっちゅう痛飲した。

この時代の男は暇さえあれば武士も公卿も酒宴を張った。
当時の日記などには「沈酔」、つまり酔いつぶれの文字がやたらと出てくる。

そのため当時の京都(日本の首都)には350軒ほどの酒屋があり、酒屋は大儲けできるので、多くが「土倉」という質屋も営んでいた。

土倉(つちくら)とは、質草を保管する土塗りの倉庫に由来する言葉で、質屋兼金貸しの通称だ。

その業務は、土地や物を担保にカネを貸すことで、月6%の利息を取り、年利7割という高利貸しであった。

高利のため、借金を返せない者が続出した。

幕府は、借金を返せない武士や公卿の救済策として、借金を棒引きにすることや、担保20年以下の土地は借りた者に返すという徳政令を濫発した。

だが農民たちの借金は教済されなかったので、徳政一揆がよく起きた。

このように土倉は人々を苦しめたが、借金しないと生活できない経済になっていたので、土倉は借金の棒引きなどがあっても、びくともしなかった。

そこで幕府は、大儲けしている酒屋や土倉に課税した。

もちろん幕府は、農民にも課税した。
土御門天皇の内裏(豪華な住居)を造る際も、諸国に税金を課した。

幕府はあらゆる名目で税をとったので、農民は苦しみ、土御門天皇の内裏落成の2ヵ月後にも、徳政を求める一揆が起きている。

🔵若い足利義政が将軍に。日野富子が妻となる

室町幕府の6代目の将軍・足利義教が1441年(嘉吉元年)に暗殺されると、義教の長男である義勝が8歳で7代目将軍に就いた。

足利将軍家は、長男以外の男子はすべて出家するという家中の掟があったので、義教の次男の義政も僧となった。

ところが義勝は在位2年足らずで急死した。死因は謎である。
このため次男の義政が将軍になるのだが、正式な将軍となるのは6年後である。

将軍になるため還俗した義政は、傅役の伊勢貞親とその妻を父母と呼び、6歳年上の細川勝元が後見人となった。

早くから義政は愛人の今参局に溺れて、14歳で義政が将軍位に就くと今参局は権勢をふるった。

尾張守護代の家督相続をめぐって、義政の母・重子と愛人の今参局が対立した時、義政は今参局に与したため、重子は怒って家出した。

このような乱れた家庭に、義政の妻として嫁いだのが、日野富子である。

康正元年(1455年)8月27日に、16歳の日野富子は8代将軍の足利義政に嫁いだ。

富子は家庭愛に恵まれなかった人で、父親は暴君だった将軍・足利義教によって殺されたし、 母からは冷遇され、後には兄(日野勝光)が謎の死をとげた。
夫となった義政も、将軍の仕事を放棄して、庭園作りなどの趣味に溺れた。

🔵足利義政・富子の夫妻の悪政

足利義政は幼少時から烏丸殿(からすまどの。京都にあった建物の名)で育ったが、足利家の家督を継いでからも将軍の御所である室町殿に移らなかった。

将軍になった14歳から30歳になるまでも、烏丸殿から動かず、室町殿の諸施設を烏丸殿に移築し続けた。

ところが烏丸殿の工事完了を目前にした1458年の暮れに、突然に烏丸殿の諸施設を元の室町殿に移築するよう全国の大名に命じた。

この身勝手な変心には、人々も呆れて「義政も父・義教と同じく狂気を宿しているのでは?」と疑った。

日野富子の兄・日野勝光は、異例のスピードで官位を上げて、40代の若さで左大臣となった。

勝光は強引な手法から、人々から「押(おし)大臣」と渾名された。
彼は金の亡者で、「現金を持参せずに私に依頼する者は、一切お断りする」と公然と語り、賄賂を要求して憚らなかった。

賄賂で蓄えたカネで広大な家を建て、天皇や将軍を招いては酒宴を開き権力を誇示した。

富子が義政に嫁ぐ前後に、危機感を持った今参局は親類の娘を義政の側室にして懐妊させたが、生まれたのは女児だった。

1459年1月に富子は20歳で一児を産んだが、死産だった。

この後、「富子の産んだ子が夭逝したのは、今参局の呪詛のせいだ」という流言が出た。

この結果、今参局は琵琶湖の沖ノ島へ流罪となり、その途中で自害して果てた。

富子が謀略でライバルを葬ったのだろう。

1459年から天変地異が続き、田植えの季節に雨が降らず、空には2つの太陽が現われた。
収穫期の秋になると、今度は大雨で洪水となった。

翌年も異常気象で、いなごが大量発生し、餓死者と病死者が大勢出て、加茂川の河原も死体で埋め尽くされた。

京都の内外に死体が散乱し、僧侶の日記には「掘った穴に1~2千人も埋めた」とある。

大飢饉の惨状をよそに、将軍・足利義政は全国から奇岩や名木を集めて庭園作りに熱中した。

義政は母・重子の住居として高倉殿の新築にも着手し、そこでは襖絵(ふすまえ)1枚に銭二百貫文をかけた。

その一方で、さる名僧が大飢饉の救済金を求めた時、義政は百貫文しか出さなかった。

妻の日野富子も、大飢饉の中、練り絹の高級服を着て、黄金の箸で美食した。

義政夫妻は各地に物見遊山に出て、その度に高価な品々が各地で2人に献上された。

その品々は市中に売り出され、何千貫文というカネに化けた。

🔵将軍家の後継ぎ争いから、応仁・文明の大乱に

1464年の12月末、足利義政は養子をとる決断をした。
富子が妻になって10年たつが、男児が産まれなかったからである。

出家していた義政の異母弟・義尋(ぎじん)が呼ばれて養子となったが、その際に義政は「もし私に男児が生まれても、お前に将軍位を譲る」と約束した。

義尋は還俗して名を義視(よしみ)に改め、細川勝元が後見人となった。

ところが翌年の11月に、富子が男児を産んだ。これが足利義尚(よしひさ)である。

義政は生まれた子(義尚)を、義視との約束があるから僧侶にしようとした。

これに富子が猛反対し、自分の子を将軍にしたいがために、八ヵ国の守護大名である山名宗全に支援を求めた。

義視を後援する細川勝元と、義尚を後援する山名宗全。
2人の実力者を巻き込んだ将軍家の後継者争いは、同じく家督争いを抱えていた守護大名の畠山氏と欺波氏をも巻き込んで、応仁・文明の大乱へと発展してしまう。

応仁・文明の乱(大戦争)が始まった時、東軍の頭領は細川勝元、足利義政、足利義視で、西軍の頭領は山名宗全、日野富子、足利義尚の図式だった。

だが、肝心の将軍・義政には対立意識が希薄だったし、日野富子も義尚が将軍になれれば後はどうでもよかった。

どうやら富子と細川勝元は、初期から裏では通じていたらしい。

だからこの戦争が始まった翌年には、孤立した義視は命の危険を感じて、無断で京都から逃げて伊勢に向かった。

義視は、義政の呼びかけで一度は京都に戻ったが、細川勝元から「あなたがいては合戦が長引くばかり。僧侶に戻られてはどうか」と言われてしまった。

困った義視は、敵軍の山名宗全を頼るはめになった。

義視は官位を剥奪され、義政は義尚に家督を継がせた。
富子は得意顔だったろう。

だが義視が追放されてからも、戦争は続いた。

🔵大戦争の中で酒に溺れる将軍家と天皇家、義政と富子の別居

足利義視の追放から3年目、日野富子と後土御門天皇に不倫の噂が出た。

当時は応仁・文明の大乱中で、東軍に警護される室町殿(足利将軍の豪邸)に足利義政・将軍やその妻の富子だけでなく、戦火を逃れて主だった皇族や女官も避難しており、将軍家と天皇家が一緒に暮らす状況となっていた。

戦争で室町殿から外出できない中、ストレス・フルになった彼らは連日連夜の酒盛りの日々で、退廃生活に溺れた。

だから土御門天皇と富子が性交しても不思議はない。
このとき土御門天皇は29歳、富子は32歳であった。

なお、富子の夫・義政は当時、「十度飲み」という今日の一気飲みにハマり、連日の泥酔であった。

この頃に義政が富子に激怒し、「公事(くじ)への立入りを禁じた」と書く史書もある。
2人は公然と別居するようになた。

わずか9歳の息子・義尚に将軍職をゆずった義政は、富子と義尚を室町殿に置いたまま、新築中の小川殿に移住した。

そこに富子と義尚が移ってくると、義政は1人で洛北の岩倉にある山荘に逃げてしまった。

天皇は義政に使者を送って、戻るよう求めたが、義政は戻らなかった。
義政は東山に東山殿(銀閣寺)を造り始めた。

🔵自分とカネのことしか考えない日野富子

ある日記は、日野富子の悪事をこう書いている。

「日野富子は天下の政治を牛耳り、巨万の富を得ている。

戦費に困る東西両軍の将軍たちは、苦虫を噛む思いで富子から高利のカネを借りている。

富子は近頃では、米の買い占めにまで手を出しているらしい。」

戦争で京都が焦土となる中、富子はカネ儲けで頭が一杯だった。

富子は近江・船木の関所の利権を持っていたが、新たに京都へ入る道の7ヵ所に関所を設けて通行料を取った。

富子は義政と結婚してすぐに、蹴鞠や庭造りや酒に溺れる夫に嫌気がさしたのだろう。

それからはひたすらカネと権力を追い求め、事実上の女将軍として政治を動かした。


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