タイトル細川政元の生涯
管領の家柄、京兆家、明応の政変など

(以下は『戦国京都』歴史群像シリーズ 横尾國和の記事から抜粋
2026年7月5日、8月4日に作成)

🔵目次

細川家という足利幕府の名門。絶大な権力を持つ

細川政元が成人するまで。細川家の内情

細川政元の国人弾圧。それに対する一揆

細川政元がクーデターで政権をとる(明応の政変)

細川政元の有力家臣の上原元秀が粛清される

敗れた足利義材のその後

細川政元の引退・暗殺と後継者争い

🔵細川家という足利幕府の名門。絶大な権力を持つ

1493年(明応2年)に、「明応の政変」と呼ばれるクーデターが起きた。

このクーデターの首謀者は細川政元(1466~1507年)で、幕府の管領という重職についており、政元は足利将軍の首をすげ替えることに成功した。

(※明応の政変について詳しくは後述する)

なお政元は変わった人で、修験道に凝り、女性を遠ざけて飛行術の会得に励んだ人でもある。

細川家は足利幕府における名門で、3代目の将軍・足利義満の時に細川頼之が管領として補佐して以降、管領職に就く家柄となった。

細川家の嫡子の家系は「京兆家」と呼ばれたが、これは代々の当主が右京大夫という官職に就いたからである。

この京兆家は、 摂津、丹波、讃岐、土佐の4ヵ国の守護職を継承した。

細川家には他にも、阿波守護をつとめる家や、淡路守護をつとめる家、備中守護をつとめる家、和泉上守護をつとめる家、和泉下守護をつとめる家があった。

さらに守護ではないが、典厩家などもあった。

細川一族は分国経営によって強大な力を持ち、応仁・文明の大乱では京兆家の当主である細川勝元が東軍の総大将となった。

政元は、勝元の嫡子である。

🔵細川政元が成人するまで。細川家の内情

細川政元が生まれたのは、応仁・文明の大乱が始まる直前であった。

1473年5月に政元の父・勝元が亡くなった時、まだ戦乱は続いていた。

政元は数え年8歳で家督を継ぎ細川・京兆家の当主となったが、幼いので典厩家の細川政国が後見人となり、10名ほどの家臣たちから成る評定衆が実務を担当することになった。

すでに細川頼之の時代から、細川家は分国経営(広大な領地の経営)をスムーズに行うため、「内衆」という家臣団を養成し、内奉行や守護代に任命して行政を任せていた。

文明11年12月に、細川政元が拉致されるという大事件が起きた。

拉致したのは被官の一宮氏で、与えられた丹波の領地が守護代の内藤元貞に押領されたことに抗議するものだった。

政元の内衆たちは一宮氏の討伐を決め、丹波へ出兵した。
文明12年3月に政元は救出され、一宮氏の父子は討滅された。

丹波守護代の内藤元貞は、以前から荘園の押領や国人たちの被官化に積極的で、これが「明応の政変」や「延徳の丹波国一揆」の原因にもなっていく。

🔵細川政元の国人弾圧。それに対する一揆

1480年(文明12年)の12月に、細川政元は15歳で判始(はんはじめ)となり、実務に携わり始めた。

政元は文明14年4月に摂津を攻めたが、これは畠山義就の討伐が目的だった。
しかし7月に義就と請和した。

戦国史家の今谷明は、この摂津攻めの目的を、逆らう国人層の討伐だったと解釈する。事実、茨木氏と吹田氏を中心とする国人一揆が、この時に壊滅させられている。

当時は国人たちが台頭していた時期で、文明17年には名高い「山城国一揆」も起きている。

政元は国人たちの弾圧を行い、それが細川政元・政権での「国人不採用主義」にも表れた。

文明14年に細川家では、丹波守護代の内藤元貞が更迭され、上原元秀が後任となった。

1486年(文明18年)の7月に、21歳の細川政元は右京大夫となり、管領に就いた。
(翌年に管領は畠山政長に替わる)

丹波守護代となった上原元秀は徹底した国人排除を行い、これが国人たちの反発を生んで、1489年(延徳元年)9月に「延徳の丹波国一揆」が起きた。

この一揆は、鎮圧まで3年半もかかり、1493年3月にようやく終わった。

今谷明は、この一揆が明応の政変の契機になったと、著書「室町幕府解体過程の研究」に書いている。

🔵細川政元がクーデターで政権をとる(明応の政変)

1489年(延徳元年)3月に、近江を支配する六角氏の討伐に出た9代目将軍の足利義尚は、陣中で没した。

この将軍急死の後、一時的に前将軍の足利義政(義尚の父)が政務をとったが、義政は次の将軍を決めるため弟の義視とその息子・義材(よしき。のちに義尹・義稙に改名)を呼んだ。

ちなみに義政の妻は日野富子だが、義視の妻は富子の妹(日野良子)であった。

また義政は、義尚以外の男子は全て若死にしていた。

呼ばれた義視・義材の父子が京都に入るさい、これに細川政元は反対して近江・大津で数日にわたり父子の入京を阻止した。
その理由は判然としない。

入京した後、義材は将軍となった。
義材は、政元よりも畠山政長を重用した。

延徳2年1月に足利義政は死去した。

1491年(延徳3年)の4月、将軍・足利義材は近江の六角氏の討伐を決意し、出陣して攻め寄せ、翌92年12月に六角高頼を近江から追放した。

足利義材は1493年(明応2年)2月に、畠山政長と敵対する畠山基家(畠山義就の子)を討つため河内に出陣した。

もし基家が討たれれば、細川政元の政敵である畠山政長はさらに台頭する。
こう考えた政元は、クーデターを決意した。

義材が基家のこもる高屋城を攻める最中、政元は日野富子や政所執事の伊勢貞陸らと密談し、クーデターの準備を進めた。

クーデターの2日前には、政元の姉と赤松政則の結婚式が行われたが、これもクーデタに向けたものだろう。

明応2年(1493年)の4月22日、僧になっていた清晃(※還俗して義澄になる)は、かつての堀越公方・足利政知の子だが、将軍になるため細川政元たちに迎え入れられた。

足利義澄はすぐさま将軍に就くのが決定し、諸大名に「足利義材を廃して義澄を将軍にする」との知らせが届けられた。

4月23日には京都にある義材の家族や被官たちの家が襲撃されて破壊された。

細川政元たちは、将軍の義材が不在なのを利用して、京都でクーデターを成功させた。

河内で合戦中の足利義材と畠山政長は、このクーデターで孤立させられた。

閏4月25日に政長は自刃し、その子・尚順は紀伊に落ちのびた。

義材は、政元の内衆で丹波守護代の上原元秀の陣に投降した。

細川政元は、このクーデターによって幕府の最高権力者となり、山城国一揆の討滅や、山城・大和・河内の領国化を進めていった。

今谷明は、この政元主導の政治を「京兆専制体制」と呼んでいる。

🔵細川政元の有力家臣の上原元秀が粛清される

明応の政変は丹波守護代の上原元秀によって起こされたと、興福寺・大乗院の尋尊が『大乗院寺社雑事記』に記している。

細川政元の内衆のうち、このクーデターに上原のみが積極的に賛成し、日野富子や伊勢貞陸とも連絡していた。

上原は畠山基家からも所領をもらっており、足利義材の行う基家攻めは彼にとってマイナスだった。

細川政元の政治は評定衆(内衆)の思惑にも左右されていたから、このクーデターは上原の意見が強く影響したようだ。

細川政元はクーデターが成功すると、上原元秀を細川一族に加えると発表したが、他の内衆の反対で中止された。

明応の政変の直後に行われた山城国一揆の解体(討滅)は、伊勢貞宗・貞陸の父子と畠山基家の協力を得て、上原賢家(元秀の父) が政元の意志とは無関係に行ったと、石田晴男が『山城国一揆の解体(信大史学 六号)』で述べている。

こうした独走の故か、上原元秀は明応2年10月に他の内衆に襲われ、その傷によって11月に死んだ。

彼の父・賢家は襲撃を恐れて逃亡した。

🔵敗れた足利義材のその後

明応の政変で降伏した将軍・足利義材は、将軍の地位を奪われ、上原元秀の屋敷に囚われた。

その後、明応6年(1497年)の秋に、義材派の畠山尚順が河内へ侵入を始め、同8年1月に畠山基家を敗死させた。

基家が死ぬと、義材は朝倉貞景の助けを得て出陣し京都を目指したが、細川政元軍に敗れた。

敗れた義材は周防の大内氏の許へ、畠山尚順は紀伊へと逃げた。

(※大内氏に身を寄せた足利義材は、名を義稙に改めて、後に京都に入り将軍に返り咲いた。)

🔵細川政元の引退・暗殺と後継者争い

文亀元年(1501年)に細川政元は、35歳にして政務を放棄した。

政務は安富元家と薬師寺元一に委ねられた。

政元の内衆(評定衆)たちは、細川家の政治を動かし、「細川政元政権」を作り出したが、内部抗争が酷かった。
政元はそれに嫌気がさしたのだろう。

細川政元は修験道に凝り、女性を身辺に近づけなかったので、息子がいなかった。

そのため1491年に九条政基の子・澄之を養子にした。

政元は1503年にも阿波守護・細川成之の孫・澄元を養子にし、さらに細川高国も養子にした。

政元が家督の継承者を決めないため、相続争いが起き、澄元を推す薬師寺元一が1504年9月にクーデターを起こした。
これは失敗し、薬師寺元一は処刑された。

澄之を推す香西元長も1507年6月23日にクーデターを起こして、細川政元を暗殺した。政元の享年は42歳。

細川澄之は細川澄元を追放したが、わずか40日後に細川高国や淡路守護・細川尚春に攻め殺された。

高国は一時は澄元を擁立したが、1508年4月に近江に追放した。

そして高国は、足利義材(義稙)を将軍に擁立し、自らは摂津と丹波の守護となった。


BACK【戦国時代(室町後期)の近畿】 目次に戻る

目次【日本史の勉強】 トップページに戻る

home【サイトのトップページ】に行く