タイトル三好之長(三好長慶の曽祖父)
細川家内で権力を握る

(以下は『三好長慶』長江正一著から抜粋
2026年8月6~7日に作成)

🔵三好長慶の祖先

三好長慶は、大永2年(1522年)に生まれた。

孫次郎あるいは伊賀守と称し、利長・範長と名乗った。

その後に筑前守・長慶(ながよし)と改め、後に修理大夫 (しゅりのだいぶ)に任命された。

長慶の父は筑前守・三好元長で、母の名や出身は不明。

長慶の生まれる2年前に、長慶の曽祖父である筑前守・三好之長(ゆきなが)が自殺させられている。

長慶の祖父・長秀は、それより前に敗死している。

三好長慶が11歳の時(1532年)に、 父・元長は細川晴元・本願寺光教によって自殺させられた。

長慶の4代前(之長の父)の三好式部少輔は、 阿波守護をする細川成之(1434~1511年)の被官で、阿波で一番の国侍だったらしい。

三好式部少輔は、阿波の3郡(阿波の3分の1にあたる)の徴税と検察の指揮者だった。

🔵乱世に三好之長が登場

応仁・文明の大乱が1467年に始まると、細川成之は細川宗家である細川勝元を助けるため、京都に出陣した。

これに被官の三好之長も従い、これが三好家が京都など近畿地方で活躍する初めとなった。

之長はこの長い戦争によって世が混乱すると、山城や大和で一揆の指導者となった。

1485年8月に京都で、徳政を求める土一揆が起きると噂され、一揆の中心人物が三好之長と判明した。

そこで一色義直、細川政元、多賀高忠らの軍が8月9日に之長の宿所を包囲した。

その直前に之長は主君の細川政之(細川成之の子)の屋敷へ逃げ込んでいたので、一色らの軍は細川政之邸を包囲した。

政之は「三好之長を死刑にする」と伝えたので、包囲軍は退散した。

ところが之長は殺されず、14日に一揆は3千人の集団となって土倉を襲った。

10月12日に細川成之と政之の父子は、阿波も治安が悪いので、京都を出発して阿波に帰った。当時の阿波は内乱状態だったらしい。

三好之長は1489年4月に、摂津国にて棟別銭と段銭を免除する活動をしている。

🔵細川政元の後継者争い、細川家の内戦

1506年4月に細川澄元は、7千人を率いて京都に入った。

(※細川澄元は細川政元の養子。政元はこのとき細川家の総領で、足利幕府の最高権力者である。)

三好之長はそれまでは細川成之の部将だったが、この時は澄元(18歳)の補佐役となった。

細川家のなかで出世してきた三好之長に対し、淡路守護の細川尚春や、山城守護代の香西元長は反感を持った。

香西元長は、摂津守護代の薬師寺長忠と組んで、三好之長を排除して細川澄之(これも細川政元の養子)を管領につけようと企てた。

細川政元は、養子の澄之や澄元を率いて丹後守護の一色義有を攻めた。

そして1507年5月29日に政元は京都に帰着したが、香西元長は隙をうかがい6月23日に政元を暗殺した。

香西元長は翌日に細川澄元と三好之長も襲った。
之長は澄元を伴って近江に逃げ、甲賀郡の山中為俊を頼った。

香西元長は、細川澄之を丹波から7月8日に迎えて、細川家の総領にした。
総領になるのは、管領就任への前段階である。

ところが香西と薬師寺長忠は、8月1日に細川高国・細川政賢・細川尚春の連合軍に攻められ、担いでいた細川澄之もろとも討ち死にした。

翌8月2日に三好之長は、細川澄元を伴って近江から帰京した。

澄元は細川家の総領になり、政治を之長に委任した。

しかし澄元は之長の傀儡でいるのが不満で、8月13日に(本拠の)阿波へ帰ると言い、16日には遁世すると言った。

この対立は、之長の被官の梶原某が処刑され、之長が剃髪して澄元の執事職を嫡子・長秀に譲ることで結着した。

🔵細川家の内戦を突いて、足利義稙(義材)と大内義興が京都を奪取する。義稙が将軍に返り咲く

前将軍の足利義稙(旧名は義材)は、周防国などを治める大内義興に長く匿われていたが、上記した細川政元の暗殺後の細川家の内紛を見るや、将軍に返り咲く好機と見て、大内軍に担がれて京都を目指した。

これを受けて細川澄元は、将軍・足利義澄に足利義稙との和解をすすめたが、義澄は戦うと決めた。

義澄は兵を集めつつ、九州の島津家や菊池家に、大内領へ攻め入れと命じた。

その頃、京都では細川高国(1484~1531年)が細川澄元に謀反すると疑われ、高国は従兄弟の伊賀守護・仁木高長を頼って京都を離れた。

これ以後、細川家では高国と澄元が宗家(家督)をめぐって争うことになる。

細川澄元を操る三好之長を嫌う、摂津と丹波の国侍たちは、細川高国軍に合流した。

不利になった三好之長は、澄元と共に1508年(永正5年)4月9日に京都を出奔し、再び近江の山中為俊を頼った。

将軍・足利義澄も、4月16日に近江へ逃れた。

細川高国は、足利義稙の側につくことを選び、足利義稙を堺に出迎えた。
5月6日に高国は、義稙から細川家の家督を許可された。

義稙は6月8日に15年ぶりに京都に入り、7月1日に将軍職に返り咲いた。

まもなく細川高国に管領に任命され、大内義興が管領代となった。

翌1509年6月に、細川高国と大内義興は2万人を率いて近江にいる三好之長たちを攻め、 之長らは逃げた。

三好之長の子の長秀と頼澄は、伊勢の山田で敗死した。

三好之長と細川澄元は、潜行して阿波へ帰った。

🔵足利義澄の陣営(三好之長ら)は敗れて負けを認める

細川澄元を担ぐ勢力は盛り返し、1511年7月に細川政賢が堺のあたりで細川高国の軍を破り、細川尚春は播磨の赤松義村と共に摂津の鷹尾城を落とした。

細川政賢たちは8月16日に京都に入り、将軍・足利義稙らは丹波へ逃げた。

足利義稙、細川高国、大内義興は8月24日に2万人の大軍で進撃してきて、舟岡山の戦いで細川政賢らは大敗した。

政賢は戦死し、三好之長は阿波に帰国した。

舟岡山の戦いの10日前に、近江で前将軍の足利義澄が32歳で死去した。

さらに9月12日に細川澄元の祖父で、阿波国を支配してきた細川成之が78歳で亡くなった。

成之の後を継いだ細川之持(澄元の弟)も、翌年1月に亡くなった。

こうした苦況から1513年2月に、赤松義村にかくまわれている足利義澄の子、足利義晴は、足利義稙と和睦した。

京都は足利義稙・細川高国・大内義興の政権が支配することとなり、1518年まで7年間、平和が保たれた。

🔵三好之長は京都を一時的に奪うも、細川高国に負けて処刑される

大内義興は、永正5年(1508年)から京都に兵を率いて駐留し続け、足利義稙の幕府の管領代として政権を支えた。

しかし大内義興は1518年8月に、駐留軍費の大変さと、本国の周防が尼子経久に脅かされたため帰国した。

大内軍の帰国は、足利義稙・将軍と細川高国・管領の政権を弱めたので、細川澄元や三好之長が京都を狙いだした。

翌1519年の5月11日に三好之長は、淡路守護の細川尚春を殺した。

尚春が細川高国に味方したので、1517年9月に之長は和泉国へ尚春を追い出していた。

同年11月9日に三好之長は、細川澄元と共に1万の兵を率いて兵庫に上陸した。

これに対し細川高国も出陣し、12月2日に摂津の池田城に入った。

両軍は武庫川(むこかわ)を挟んで対陣した。

1520年(永正17年)の2月3日に、三好之長軍の一部が攻めていた越水城が落ちた。

この頃、京都に土民が入って、徳政を求めて略奪を行ったため、細川高国軍は兵を退いた。

2月16日に三好之長軍が尼崎方面を破り、17日に伊丹城と池田城を落とした。

18日に細川高国は近江の坂本へと逃げた。

三好之長は山城国を征服した後、1520年3月27日に京都へ入った。
之長にとって10年ぶりの入京だった。

京都に残っていた将軍・足利義稙は、これを見て5月1日に、之長が担いでいる細川澄元に細川家の家督を許可した。

一方、逃げていた細川高国は5月3日に出陣し、翌4日に近江の六角定頼・朽木稙綱・蒲生定秀や、越前の朝倉家、美濃の土岐家らの軍勢2万人が合流した。

さらに丹波の内藤貞正も加勢するため7千人を率いて出陣した。

三好之長は、細川高国軍に備えて京都の将軍邸近くに布陣したが、高国側に寝返る者が続出し、高国側が4万人に対し、之長側は4~5千人となった。

両軍の戦いは等持寺(等持院)の東南で5月5日の正午に始まり、高国側の勝利で午後8時頃に終わった。

逃げた三好之長とその息子は、曇華(どんげ)院に匿ってもらった。

之長が京都にとどまった事について、医師の半井(なからい)保房は、「之長は馬が無くなり、肥満の身体なので十町も動けず、近所に落居たり」と書いている。

細川高国は三好之長の居所を探知すると、曇華院に引き渡すよう要求した。

しかし院の方丈(尼僧のトップ)は将軍・足利義稙の姉であったが、引き渡しを拒んだ。

高国が生命の保証をしたので、之長らは10~11日に院を出た。
之長たちは髪を落とし、仏僧の服を着て出てきた。

ところが高国は約束を守らず、11日に之長を斬った。
三好之長はこのとき63歳だった。

之長と一緒に投降した、息子の長光と長則、甥の新五郎も処刑された。

三好之長の処刑について、半井保房は 「之長は合戦で強かった者だが、これは天罰だ。之長は最上の大悪人で、人々はその死を喜んだ」と書いている。

三好之長に担がれていた細川澄元は、阿波へ逃げ帰ったが直後の6月10日に32歳で死んだ。


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