岡左内(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
岡左内は、諸書に名字が「岡野」とも出ている。
これは平ノ清盛や源ノ義経のように、「岡ノ左内」と呼ばれていたためだろう。
岡左内は、1568年頃に蒲生家に仕官した。
織田信長が朝倉義景を1570年に攻めた時、蒲生家の兵として手筒山の戦いで戦功をあげた。
彼は1587年の島津家攻めでも戦功をあげたが、軍規違反の先駆けを主君・蒲生氏郷にとがめられ、一時は解雇された。
しかし間もなく許されて職に復帰した。
1590年に氏郷は会津に転封となったが、左内も随行して会津に移住した。
1591年の九戸政実の乱では、氏郷は3万の兵を率いて討伐し、九戸城が降伏すると政実ら150余人を斬首した。
それだけでなく、城内の者は婦女子までが二の丸に押しこめられ、火をかけられて皆殺しにされた。
この後、岡左内は8千石を領する重臣となった。
1595年に蒲生氏郷が亡くなると、後継ぎの秀行はわずか13歳だったため、家中がまとまらず混乱した。
その結果、98年に蒲生家は宇都宮18万石に減封・転封となってしまった。
このとき左内は蒲生家を離れて会津に残り、新領主となった上杉景勝に仕えて、 4200石を与えられた。
関ヶ原の合戦の時は、上杉家は西軍側として隣国の伊達家と戦争したが、左内は1400の兵を率いて先駆けし、伊達政宗と斬り合うこともした。
左内は戦場で斬り合った相手が政宗だったと後で知り、「組み打ちしても討ち取るべき だった」と悔しがったという。
東北では、関ヶ原の合戦で東軍が大勝してからも、翌年にかけて上杉と伊達の戦いが続いた。
上杉が優勢で、上杉強しの名声が天下に広まったという。
最終的に上杉景勝は負けを認めて、徳川家康に謝罪するため上洛したが、これに左内も同行した。
上杉家は領地を30万石に減らされて米沢に移封となり、左内は上杉家を離れた。
佐内は上杉景勝に仕えていた時期に、景勝にとても気に入られて、「越後」の称号を与えられた。
また左内は、いつしかキリシタンになり、バテレンから贈られた南蛮つくりの兜をかぶるようになった。
会津に留まった岡左内は、新たな会津の領主となった、旧主君の蒲生秀行に仕え始めた。
それにしても、なぜ左内は会津に居続けたのだろうか。
この謎の鍵は、彼が臨終の時に主君・秀行に3万両を贈り、同僚などにカネを貸した借用証文もすべて焼き捨てたという逸話である。
3万両とは今日の数十億円にあたり、並の者が貯えられる金額ではない。
実は当時、会津では金鉱が次々と見つかり、盛んに採掘されていた。
左内の領地にも金鉱があったと推測できる。
左内は1608年から猪苗代城の城代となった。
キリシタンの左内は、キリスト教の布教に力を入れ、代わりに神社や寺を潰していった。自領内に神学校を開き、宣教師を泊まらせていたという。
江戸幕府は1612年にキリスト教を禁じ、14年には高山右近ら148人のキリシタンを国外追放した。
左内も肩身が狭くなっただろう。
1622年に左内は猪苗代城代でなくなったが、最後は棄教して自害したとも病死したとも伝わる。
(以上は2025年10月22日に作成)