御館の乱(上杉謙信の後継争い)(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
1578年3月13日に、上杉謙信が病死した。享年49歳。
謙信は4日前に居城の春日山城内にて卒中で倒れ、回復せずに死亡した。
生涯妻を持たなかった謙信は息子がおらず、景勝と景虎の2人の養子がいた。
そして、どちらに家を継がせるかを決めてなかった。
景勝は、謙信の姉・仙洞院と長尾政景の子である。
景虎は、北条氏康の七男で、武田信玄の養子となったが、その後に謙信の養子となった人。
謙信が倒れた時、5万余の兵が上洛作戦に向けて春日山城下に集結していた。(※この兵数は誇張があると思う)
しかも武田勝頼の軍と北条氏政の軍が、謙信の出兵に呼応して徳川領の遠江を攻める手はずになっていた。
謙信が卒中で倒れ、3月11日に危篤となった時、謙信の近習をしている樋口与六(※のちの直江兼続、ここからは兼続で記述)は本庄繁長らと相談した上で、景勝に伝えた。
それで景勝は春日山城の本丸に入り、昏睡状態の謙信の枕辺に来た。
景虎も謙信危篤を知って本丸に入ろうとしたが、兼続の配備した兵士たちに阻まれた。
こうして本丸は景勝方が占拠した。
そして「謙信の後継者は景勝である」と主張した。
景虎は、御館(おたて)に住んでいる上杉憲政に相談した。
憲政は、元は関東管領だった人で、関東を追われて越後に来た。
そして関東管領の肩書きを謙信に譲り、謙信の養父にもなっていた。
憲政は景虎に味方して「後継ぎは景虎にしなさい」と景勝に伝えたが、景勝は拒否した。
景虎は春日山城の二の丸に立てこもりつつ、実兄の北条氏政や、氏政の妹婿の武田勝頼に援助を求めた。
本丸にいる景勝方は、二の丸へ砲撃を始め、景虎は5月13日に二の丸を脱出して御館にたてこもった。
武田勝頼軍が景虎に応えて越後まで来たことで、景勝方は不利となった。
だが景勝方は、莫大なカネで武田勝頼を懐柔し、撤兵させた。
北条軍も越後まで景虎支援に来たが、冬になると北条氏邦や北条高広を残して撤兵した。
翌1579年に入ると景勝方が優勢となり、3月17日に直江兼続の提案で御館を夜襲した。景虎方は多くの死傷者を出した。
景虎は和睦を申し入れ、息子を上杉憲政に託して人質として送り出した。
だが景勝方はこの息子と憲政を殺した。
景虎は、実家である北条家の本拠地・小田原に逃げようとした。
しかし途中で鮫ヶ尾城主の堀江宗親の裏切りにあい、3月24日に自害した。
(2025年10月23日に作成)