新発田重家の自立、上杉家に攻め滅ぼされる(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
新発田重家は、越後の東北部を拠点とする土豪で、御館の乱では上杉景勝方に属して活躍した。
しかし乱の後、論功行賞に不満を抱き、1582年1月頃から上杉氏からの独立を図るようになった。
重家は、会津の蘆名盛隆を通じて、織田信長に連絡した。
上杉景勝は、菱沼友重と山吉景長に数度にわたって新発田城と五十公野城(いじみのじょう)を攻めさせたが、落とせなかった。
1584年には直江兼続らも攻撃に加わたが、負けて大損害をこうむった。
だが1585年になると、新発田方のいくつかの城が上杉方に寝返り、そして新発田側は戦力が衰えていった。
1587年5月に、上杉景勝は自ら新発田攻めに加わった。
そして9月7日に加地城を、9月14日に赤谷城を落とした。
10月24日に五十公野城が落ち、城主の五十公野道如斎が討死した。
翌25日には新発田城も落ち、新発田重家は討死にした。
これで新発田の乱は終結し、上杉景勝の越後支配が完成した。
(2025年11月4日に作成)