戦国時代の越後は、まだ原野や湿地が多かった(以下は『週刊文春 2023年9月7日号』清水克行の記事から抜粋
2026年7月20日に作成)
新潟県は、米どころで平野と美田のイメージがある。
しかし江戸時代に干拓が進むまでは、豊かな米作地帯ではなかった。
とくに阿賀北(あがきた)と呼ばれる、阿賀野川よりも北は、広大な湿地帯だったと考えられている。
戦国時代にこの地を旅した僧の記した帳(永禄六年北国下り還足帳)を見ると、「舟賃が~文」との記載が多い。
移動時に小刻みに舟賃を支払っている。
この事から、河川が多くあり、渡し舟が必須だったと分かるのだ。
ちなみに「ニイガタ」の地名が最初に出てくる古文書が、この帳簿である。
当時の京都では、越後(新潟の旧名)の最も有名な産物は「青苧(あおそ)」(衣料用の麻の繊維)だった。
当時の京都人にとっては、越後は田園地帯ではなく、湿地に麻や葦が群生する原野のイメージだろう。
現在でも、埋め立てられずに残った福島潟(新潟市にある)などは、草原があり水鳥が見られる。
越後で渡し舟を操る民たちは、「ワタリ」と呼ばれていた。
ワタリの民は、水運業や漁業をしたが、一向宗の信者だった。
阿賀川地方の土豪たちは、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる独立心の強い者たちで、上杉謙信は支配するのに手こずった。