(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
1904年2月8日に、日本陸軍の先遣隊が朝鮮の仁川に上陸し、日本の連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊に先制攻撃した。
2月10日に日本は、ロシアに宣戦布告した。
日露の両国は戦争を始める直前に、それぞれが清(中国)の政府に対して「東北部(満州)で戦争が起きた場合、中立を宣言しろ」と要求した。
自国領内で他国が戦争をするのに、見て見ぬふりをしろという要求だが、清政府は受け入れて2月12日に中立宣言をした。
ただし、日露両国が東北の町や人民に損害を与えないこと、どちらが勝っても中国(清)の領土だと認めること、を条件にした。
日露両国は上の条件を無視して、人民は戦火にさらされた。
日露戦争で最も犠牲を強いられたのは、中国の庶民であった。
数百万の人々が殺傷され、戦場近くの村はほとんどが廃墟となった。
旅順戦に敗れたロシア軍は、北へ退却したが途中で中国人に与えた損害は筆舌に尽くし難いものがあった。
奉天大会戦の時も、ロシア軍は中東鉄道(東清鉄道)の沿線の民家を略奪し、住民を殺した。
(2021年6月2日に作成)