日英同盟の締結(1902年1月)

(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)

1902年1月に、『日英同盟協約』は結ばれた。

その内容は次のとおり。

第1条
大英帝国(イギリス)は清国に、日本帝国は清国と韓国(朝鮮)に、特別な利益(利権)を有する。(後略)

第2条
大英帝国または日本帝国が上記の利益を防護するため他国と戦争をするに至った時は、もう一方の国は中立を守りつつ、第三国が参戦するのを防ぐ。

第3条
上記の戦争が始まった場合、第三国が敵国側で参戦した場合は、日英同盟のもう一方の国は援助をして参戦する。

この日英同盟は、東アジアにおけるロシアの進出に対抗する目的で結ばれた。

また、日英の東アジアに持つ権益を守る目的もあった。

ここからは、日英同盟が結ばれるに至る流れを書く。

1895年の下関条約(日清戦争の講和条約)で、遼東半島が日本に割譲された。

すると清国の東北部(満洲)に利権を持つロシアは、フランス、ドイツと共に遼東半島の返還を要求した。
(※これを三国干渉という)

日本はこれを飲んだが、ロシアは1898年に遼東半島にある旅順と大連の2港を租借した。

同じ1898年に、ドイツは山東半島の膠州湾を租借した。

イギリスも同年に、すでに得ている香港に隣接する九龍半島(一部は1860年にイギリスに割譲されていた)と、山東半島の威海衛を租借した。

翌1899年にはフランスが、広州湾を租借した。

租借とは、外国が土地を借りることだが、実質的には領土にして支配するものである。

ロシア、イギリス、フランスは、租借地から鉄道を内陸まで敷いたり、鉄道沿線の鉱山の採掘権を得たりした(利権を開発した)。

清国の山東省では、義和拳や太刀会といった秘密結社が勢力を拡大させ、1899年になると義和拳の蜂起が山東省で拡がった。

地方官はこれに対して、団練(農村の自衛のための武装組織)として公認した。

義和拳の信徒は、「義和団」と名乗るようになり、彼らは「扶清滅洋」(清を助けて外国を滅ぼす)を唱えて北上し、首都・北京に迫った。

義和団は、台湾の回復(※台湾は日清戦争の結果、日本に割譲されていた)を主張するなど、反帝国主義の性格を持ち、北京にある各国の公使館を包囲した。

これに対し、日本、イギリス、ドイツなどの8ヵ国の連合軍が出兵した。

日本は連合軍の半数近い2.2万人の大軍を送り、連合軍で最も多い死者数を出しつつ、義和団を鎮圧した。

さらに日本は、義和団の乱に乗じて、福建省の厦門(台湾に面した中国の港)に出兵し、これを占領した。

この占領は、連合国の抗議で失敗に終わった。

だが日本国内では、外国への侵略(領土獲得)を容認する声がいっそう強くなった。

ロシアは、義和団の乱を機会に、満洲に派兵して占領した。

また朝鮮でも、1896年には朝鮮国王がロシア公使館に移住して、そこで政務をとる従属状態となった。

このロシアの勢力拡大に対し、日本政府では、ロシアと結ぶ案(日露協商論)と、イギリスと同盟を結んでロシアと対決する案(日英同盟論)に分かれた。

どちらの論も、朝鮮を日本が支配し、福建省に権益を持つ方針は同じだった。

そして、小村寿太郎・外相らが主張した日英同盟論が勝ったのである。

一方イギリスはどうだったかと言うと、日清戦争に勝った日本に一目置き、三国干渉の時は様子見した。

しかしその時点では、ロシアやドイツと手を結ぶ交渉をしていた。

その後、ロシアが満洲へ進出し、ドイツがこれに反対しないのを見て、日本に接近した。

同盟の交渉は、最初は日本、イギリス、ドイツの3国で交渉が始まった。

途中から日本とイギリスの2国の交渉となり、1902年1月に『日英同盟協約』は調印された。

日本は、日英同盟を結ぶと強気になり、1904年に日露戦争を始めた。

イギリスは同盟に基づいて中立を宣言したが、日本に肩入れして戦費調達のため日本政府の発行した外債を引き受け、軍艦の買い入れを仲介した。

その後、日英同盟は第一次世界大戦の時に再び発動した。

イギリスがドイツに宣戦布告すると、日本もイギリス側で参戦し、ドイツ領の山東半島の青島や南洋諸島を攻めて占領した。

さらにどさくさに紛れて清国に「21ヵ条の要求」を突きつけて、権益拡大を謀った。

第一次世界大戦の後、1921年に始まったワシントン会議の結果、日英同盟は廃された。

(2022年3月16日に作成)


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