(『週刊文春2023年7月27日号 清水克行の記事』から抜粋)
徳川家は、旧姓は松平である。
松平家の草創期を書いた『三河物語』などによると、松平家は、初代は親氏である。
そこから②泰親、③信光、④親忠、⓹長親、⑥信忠、⑦清康、⑧広忠、⑨家康と、当主が続いた。
初代の親氏は、清和源氏の末裔だが徳阿弥という流浪の坊主になり、三河国の松平郷に婿入りしたという。
なんとも胡散臭い話だ。
実のところ、6代目の信忠くらいまでは、生没年も不確定である。
徳川家康の先祖は、家康自身が系譜を捏造したと、考えられている。
家康は、松平から徳川に改姓するにあたり、出自を清和源氏に連なる新田氏にするため、先祖を偽作した。
歴史研究者にとって、松平家の初期の人たちは、神話に等しい。
天皇家の初期と同じだ。
『三河物語』は、天皇家が書かせた『古事記』『日本書紀』と同じで、気を付けて読まないと危険だ。
研究者たちの努力で、家康の先祖の実体が分かっている。
史料が見つかっているのだ。
寛正6年(1465年)5月に三河国で、守護の細川・讃州家に武士たちが反乱する事件が起きた。
この時に、京都の室町幕府で政務をとる伊勢貞親を、細川家の使者が訪ねている。
伊勢家の家宰の日記(親元日記、ちかもとにっき)に、 次のことが書いてある。
「(細川家の)使者が言うには、三河国・額田郡の牢人たちを、御被官(伊勢家の家臣)の松平和泉入道の親類らが匿っている。
先月29日付の御奉書(足利将軍の命令書)に従って、 貴殿(伊勢貞親)からも厳しい処罰の書状をもらいたい、とのことだ。」
室町時代は、百姓や武士たちは「逃散」(ちょうさん)と称して、荘園領主や守護から逃げて、近隣の地に匿ってもらうストライキを敢行していた。
当時はそれぞれの土地に治外法権が認められており、他人の土地に逃げれば守護でも手を出せない。
そこで荘園領主や守護は、将軍から「逃散許容禁令」を発行してもらい、それを潜伏先の領主に見せて交渉した。
細川讃州家は、すでに将軍からこの命令書をもらい、三河国・額田(ぬかた)郡を支配する伊勢氏に対して、御被官(家臣、ここでは松平和泉入道) が逃げた者を匿わないよう求めたのだ。
ここに出てくる松平和泉入道は、松平家の3代目・信光のことだ。
松平信光は、史料で確認できる最初の当主である。
親元日記によれば、松平信光は伊勢氏の家臣だった。
室町時代の地方の武士たちは、3つの選択肢があった。
守護の家臣になる、幕府の直臣になる、自立する (国人一揆)、の3つである。
松平家は、幕府の直臣(奉公衆)になる道を選んでいたのだ。
こう考えると、松平家の歴代当主に「親」の字を持つ者が多いのも、納得できる。
主人である伊勢貞親から、親の字を偏諱(へんき)されたのだろう。
江戸時代の書物には、徳川家康の先祖が伊勢氏の家臣だとは1つも出てこない。
徳川将軍家の先祖が、足利将軍の家臣のそのまた家臣だったことは、隠されたのである。
(2024年6月16日に作成)