タイトル武田信玄の略歴②

(以下は『信玄の戦略』巻末の年譜から抜粋)

永禄3年(1560年) 40歳

1月9日 公家の菊亭晴季に、父・信虎の娘が嫁ぐ。

3月26日 越中の神保良春が内応してくる。そのため神保は上杉謙信に攻められる。

10月17日 浄土真宗(一向宗)の本願寺顕如と連携することに。
信玄は、越中の一向一揆と初めて連絡をとる。

11月 一族の勝沼信元が背いたため成敗する。

永禄4年(1561年) 41歳

3月3日 上杉謙信が関東へ向けて出陣する。信玄は北条氏康から援軍を求められる。

8月14日 謙信は川中島へ出陣する。

8月16日 信玄も甲府から出陣する。

9月10日 川中島で武田軍と上杉軍が戦い、大激戦になる。
武田軍は、信玄の弟・信繁や山本勘助が戦死する。

11月 信玄は、西上野へ出陣する。

11月24日 国峰城をおとす。

永禄5年(1562年) 42歳

6月 息子の勝頼は諏訪氏を継ぎ、諏訪四郎と称す。

9月 西上野に出陣。箕輪城などを攻める。

9月頃 和田氏が帰属する。

11月 再び西上野に出陣。北条氏康と呼応し、上野・武蔵の上杉方の諸城を攻め、そのまま越年する。

永禄6年(1563年) 43歳

2月4日 北条氏康と共に武蔵の松山城をおとす。

4月2日 軍用道路を造り、奥信濃の攻略を進める。

9月15日 上野の安中氏が従属してくる。

10月13日 配下の真田幸綱らが上野の岩櫃城をおとす。

12月 西上野にまた出陣。倉賀野城を攻める。

閏12月 北条氏康と共に上野の金山城を攻める。

永禄7年(1564年) 44歳

2月14日 上野の尻高城をおとす。

3月10日 将軍・足利義輝は、武田氏と上杉氏の和睦調停をする。

3月18日 信濃の野尻城をおとす。

4月 会津の蘆名盛氏が武田氏に呼応し、越後に攻め入る。

5月17日 信玄は西上野に出陣し、倉賀野城をおとす。

6月15日 江馬時盛を救援するため、飛騨に出兵。

6月17日 斎藤竜興に攻められた長井道利に援助を約束する。

8月3日 川中島で上杉謙信と対陣する。

永禄8年(1565年) 45歳

2月7日 箕輪城攻略のため上野に出陣する。

10月 嫡子・義信らの謀反が発覚する。
義信は東光寺に幽閉し、謀反に加わった飯富虎昌は成敗する。

11月13日 息子・勝頼は、織田信長の養女を娶る。

11月17日 西上野の嶽山城を落とす。

永禄9年(1566年) 46歳

8月25日 足利義昭が将軍に就任する。
義昭は武田・北条と上杉との和睦を調停する。

閏8月 西上野へ出陣。

9月29日 箕輪城をおとす。

永禄10年(1567年) 47歳

5月 上野の惣社城をおとす。

8月17日 今川氏真の家臣の葛山氏元が、甲斐への塩留めを行う。

10月19日 嫡男・義信が東光寺で自害する。

11月 義信の妻を駿府(今川氏の本拠)に送還する。

12月 五女・松姫と織田信忠(信長の嫡男)の婚約が成る。

12月21日 今川氏真は上杉謙信と同盟する。

永禄11年(1568年) 48歳

1月21日 蘆名氏の家臣に、越後への乱入を依頼する。

2月16日 徳川家康と今川領である駿河・遠江の分け取りを約束する。

6月3日 上杉謙信の家臣の本庄繁長が反乱を起こす。これに呼応して、 越後に出兵する。

7月10日 信濃の飯山城をおとす。

7月16日 越中の勝興寺に使者を送り、一向一揆を越後へ侵攻させる。

12月6日 駿河に向けて出陣。

12月13日 武田軍が駿府を占領。今川氏真は掛川城へと逃亡。

12月23日 徳川家康に書状を送り、遠江への出陣を謝し、掛川城にいる氏真を攻めるよう要請する。

永禄12年(1569年) 49歳

1月26日 北条氏政は、今川氏の救援のため薩埵峠(さったとうげ)に着陣。 武田軍と対面する。

3月23日 織田信長に依頼して甲越の和睦を図る。

4月7日 徳川家康に掛川城の攻略を再び促す。

佐竹・里見・宇都宮氏には小田原(北条氏の本拠)の攻撃を要請。

4月24日 北条軍と薩埵峠で戦い、敗れる。甲府へ退却する。

6月9日 越相同盟(上杉と北条の同盟)が成立。

6月16日 駿河・駿東郡と伊豆に侵攻する。

6月17日 北条氏政夫人だった長女が、甲府に戻る。すぐに死去する。

7月2日 富士郡の大宮城をおとす。

8月24日 甲府を出陣し、北条氏の領土へ遠征。

9月10日 武蔵の鉢形城を攻める。

9月 家臣の小山田信茂は武蔵の滝山城を攻める。

10月1日 小田原城を包囲する。

10月4日 小田原城の包囲を解き、帰路につく。

10月6日 相模の三増峠で北条軍と戦い、破る。

12月6日 駿河に再び出兵し、蒲原城をおとす。

12月13日 駿府を再占領する。

元亀元年(1570年) 50歳

1月26日 駿河の花沢城をおとす。

2月 徳一色城をおとした後、2月下旬に甲府へ帰る。

4月10日 足利将軍家に土地を進上し、息子・勝頼の任官と偏諱を求める。

5月14日 北条軍と駿河の沼津で戦う。

6月5日 武蔵の御嶽城をおとす。

7月28日 正妻の三条夫人が死去。

8月12日 伊豆の韮山城を攻める。

9月 武蔵に出陣し、北条方の諸城を攻める。

10月8日 徳川家康は、武田信玄と絶縁し、上杉謙信と同盟する。

12月 駿河の駿東郡に出陣。

元亀2年(1571年) 51歳

1月16日 北条氏が取っている駿河の深沢城をおとす。

2月 徳川領の遠江に出陣。

3月5日 遠江の高天神城を攻める。

4月19日 三河の足助城をおとす。

4月29日 三河の吉田城を攻め、徳川家康軍を二連木にて破る。

5月上旬 甲府に帰着。

9月 武蔵に侵攻。

11月20日 伊勢から小浜氏らの海賊衆を呼び、雇う。

12月27日 甲相同盟が復活。

元亀3年(1572年) 52歳

1月 西上野に出陣し、上杉謙信と対陣する。

この頃、織田信長と戦う本願寺から救援を求められる。

閏1月3日 上杉謙信が武田方の上野・石倉城をおとす。

3月 比叡山から延暦寺の再興の援助を要請される。

7月26日 比叡山から僧正位に任ぜられる。

8月7日 木曾衆を飛騨に出兵させる。

8月 病気のため出陣を延期する。

10月3日 甲府から出陣。浅井・朝倉氏に向けて書状で、信長に対抗するよう要請する。

10月下旬 遠江の二俣城を攻める。

11月中旬 別動隊の秋山信友が、美濃の岩村城をおとす。

11月20日 織田信長は上杉謙信の要請を受け入れ、(武田領の)信濃に攻め入ると約束する。

12月19日 二俣城をおとす。

12月22日 遠江の三方ヶ原で、徳川軍に大勝する。

元亀4年(1573年) 53歳

1月 三河に侵攻。

2月15日 三河の野田城をおとす。だが発病する。

2月17日 長篠城に入り、身体の回復を待つ。

4月12日 甲府へ戻る途中に病死する。

🔵以下に、信玄の年譜を書き出す作業中に気づいた事を書く。

信玄は、若い頃や30代後半に、あまり実績を残していない時期がある。

前者は村上義清に敗れたためと思われ、後者は上杉謙信を敵に回したため低滞したと思われる。

織田信長の年譜もノートに取ったから分かるのだが、信長に比べると信玄はアクションが少ない。

今回勉強して思ったのは、 1年に1回は大きな業績を残すことをくり返さないと天下は取れないということ。

信長と信玄の違いは、自分よりも強い相手にも時には戦いを挑むか挑まないかだと思う。

信玄は勝てる相手にしか戦いを挑んでいない印象。

もし信長だったら上杉謙信と激突した時点で、結着をつけるまで戦い続けただろう。

信玄は晩年になってから、非常に積極的に戦争をしているが、おそらく自分が長くないと気づいたからだろう。少し戦争をしすぎている感じすらある。

信玄がもっと長命でも、信長に勝てたとは思わない。

しかしもう少し長生きすれば、徳川家康はやられて、徳川家は滅んだのではないかと思う。

その場合、家康は信長の元へ逃げて一部将となり、三河が織田領となった時点でそこの領主に任命されたのではないか。

そうなると家康は、信長の死後に天下を取ることは無かったのではないか。
(信長の同盟者ではなく配下の一人という立場になり、羽柴秀吉らと同等で、特別の存在感が出ないため)

信玄が死んで最も得をしたのは、家康なのは間違いない。運のいい男である。

信玄は、その時その時に最も弱い隣国を攻めている。

これに対し信長は、自分の天下構想に最も重要な所を攻めている。

それに信玄は城を1つ1つ落としていくが、信長は小さい城は無視して、主城を一気に落とすことをよく行っている。
信長のほうが合理的である。

(以上は2011年1月13~31日にノートにとり勉強
それを2025年8月26~27日にここに記載)


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