(以下は『歴史群像シリーズ』から抜粋)
武田信玄(晴信) 1521年11月3日~1572年4月12日 享年53歳
甲斐生まれ。名門・武田家の人。信玄は出家名である。父は信虎。
武田信繁 1525年~1561年 享年37歳
武田信虎の二男で、信玄の同母弟である。
武田信廉(逍遙軒) ?~1582年 武田信虎の三男で、信玄の同母弟。
1582年の織田氏の武田攻めの時、織田軍に捕まり処刑された。
武田信虎 1494年~1574年3月 享年81歳
1541年3月に駿河におもむいた際、息子・晴信がクーデターを起こし、追放された。
家臣ではないが、一応メモ。
武田義信 1538年~1567年 享年30歳
信玄の嫡男だったが、クーデターの嫌疑をかけられ失脚した。
武田勝頼 1546年~1582年3月11日 享年37歳
信玄の四男で、母は諏訪氏。義信の失脚後に信玄の後継ぎに指名された。
織田軍に敗れて自害。
仁科盛信 1557年~1582年 享年26歳
信玄の五男で、母は油川夫人。織田軍が攻めてきて戦い、戦死。
小山田信茂 1541年~年
小山田信有(出羽守) 1517年~1552年1月 享年34歳
穴山信君(梅雪) 1541年~1582年 享年42歳
母は信玄の姉。妻は信玄の二女。武田姓を許されていた。
穴山信友 1504年~1560年 享年57歳
信君の父。
板垣信方 ?年~1548年2月14日
重臣だったが、村上義清との合戦で戦死。
甘利虎泰 ?年~1548年2月
秋山信友 1527年~1575年 享年49歳
美濃の岩村城を守っていたが、織田軍に攻められて降伏し、処刑された。
高坂昌信 1527年~1578年 享年52歳
豪農の子で、信玄の奥近習になり、そこから出世した。病死した。
『甲陽軍鑑』は昌信の著作と伝えられている。
馬場信春 1515年~1575年 享年61歳
教来石・民部景政という名だったが、馬場氏を継いだ。長篠の合戦で戦死。
内藤昌豊 ?年~1575年
工藤祐長という名だったが、内藤氏を継いだ。長篠の合戦で戦死。
山県昌景 ?年~1575年
飯富虎昌の実弟。1565年に山県氏を継いだ。長篠の合戦で戦死。赤備えの部隊を率いていた事で有名。
飯富虎昌 ?年~1565年
武田義信の事件に連座して処刑された。赤備えの部隊を率いていた事で有名。
原昌胤 ?年~1575年
長篠の合戦で戦死。
室住虎定(諸角昌清) 1481年~1561年9月10日 享年81歳
山本勘助 1491年~1561年9月10日 享年71歳
1543年に武田家に仕官を求め、信玄に採用された。このとき51歳だった。
川中島の合戦で戦死。
小幡虎盛 1491年~1561年6月 享年71歳
元は遠州の郷士だった。父に連れられて武田家に仕官。
横田高松 ?年~1550年
伊勢の出身で、信虎時代に仕官した。村上義清との合戦で戦死。
原虎胤(美濃守) 1497年~1564年 享年68歳
父と共に信虎に仕官した。病死。
三枝守友 1538年~1575年 享年38歳
長篠の合戦で鳶ノ巣山にて戦死。
多田満頼 ?年~1563年12月
美濃出身。信虎に仕官。病死。
曽根昌世 ?年~?年
後に徳川家康、蒲生氏郷に仕えた。
真田幸隆 1513年~1574年5月 享年62歳
1546年頃に武田家臣になる。病死。
真田信綱 1537年~1575年5月 享年39歳
長篠の合戦で、弟の昌輝と共に戦死。
真田昌幸 1547年?~1611年
幸隆の三男で、武藤の名をもらい名乗っていた。武田家の滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。
小幡信貞 1541年~1592年 享年52歳
城持ちだったが、ある事件で亡命して信玄の配下になった。上野攻略を担当した。
(以上は2005年頃にノートにとった
それを2025年8月28日にここに記載)