越中における織田と上杉の攻防(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』から抜粋)
1577年9月に上杉謙信は、柴田勝家が率いる織田軍を破り、越中を手中にした。
1578年3月に謙信が病死すると、織田信長は再び越中攻略に着手。
越中中郡・守護代家の正嫡である神保長住を富山城に入れた。
さらに81年には佐々成政を越中に封じた。
1582年になると、柴田勝家や佐々成政らの織田軍は、上杉方の魚津城(越中の重要な城の1つ)を包囲した。
上杉家の当主・景勝は、新発田重家の反乱があって援軍を送れなかった。
ちなみにこの時期、織田軍に攻められた武田家からも、上杉家に援軍の要請があった。(景勝は援軍を送らず。武田家は敗れて滅亡した。)
同年4月17日に、松倉城にいた上条政繁の軍が、織田軍の包囲を突破して魚津城に入った?(※疑わしいので?にした)
4月23日、魚津城を守る山本寺景長や吉江宗信は、上杉家の重臣・直江兼続に書状を送り援軍を再び求めた。
景勝が軍を率いて魚津城近くに着いたのは5月15日で、すでに魚津城は二の丸まで落とされていた。
このとき織田家は、上野に配された滝川一益が三国峠から、北信濃からは森長可が、春日山城(上杉家の本拠)を狙っていた。
そこで景勝は春日山城に戻ることにし、魚津城は見捨てられた。
6月3日、ついに魚津城は落ち、城将の多くは切腹し、女子供まで自害したという。
その直後に織田軍は、同じく越中にある松倉城を囲んだ。
ここで状況が一変した。
6月2日に起きた本能寺の変が、越中にいる織田軍にも報告されたのである。
6月5日以後というが、越中の織田軍に信長の死が知らされた。
織田軍はあわただしく撤収し、上杉方の須田満親が魚津城に入った。
この後、佐々成政が魚津城を攻撃し、1583年3月末に須田は和議を請い、ここに上杉家の魚津支配は終わった。
(2025年11月4日に作成)