羽柴秀吉の鳥取城攻め(以下は『週刊文春 2023年10月26日号』清水克行の記事から抜粋
2026年7月13日に作成)
鳥取県にある鳥取城は、かつて羽柴秀吉が兵糧攻めしたことで有名だ。
秀吉はこの城を攻めるさい、東1.5kmにある標高251mの山の上に陣城を築いた。
この陣城の遺構が今でも残っている。
秀吉は天正9年(1581年)の7月に、毛利家の吉川経家が守る鳥取城を包囲し、兵糧攻めを仕掛けた。
当時の戦争では、兵士の掠奪や放火、一般人を拉致して売り飛ばすことが、平気で行われていた。
戦国時代の領主は、ほとんどが成り上がった者たちだ。
彼らは領地にいる人々の生命・財産を守ることを約束することで、支配を正当化していた。
逆に攻め込む側は、一般人を標的にして村や町を焼き払うなど、住民の生活を破壊することで、領主の無能さをアピールした。
羽柴秀吉が鳥取城を攻めた時、近隣の人々は襲われるのを恐れて、鳥取城に逃げ込んだ。
それを見た秀吉は、兵糧攻めを採用したが、これは鳥取城の人々を飢餓で苦しめ、なぶり殺しにする策謀である。
羽柴軍に包囲されて兵糧攻めにあい、飢餓に耐えかねて城外に出た者は、羽柴軍の鉄砲で撃ち殺された。
その死体に飢えた人々が飛びついて食べるという、地獄絵図が現出した。
羽柴秀吉が造った陣城は、『信長公記』では「大将軍の居城」と呼ばれている。
大将軍とは織田信長のことで、秀吉はこの城に主君の信長を招き、毛利軍の本隊と決戦に持ち込む腹だったようだ。
しかし10月下旬に鳥取城は降伏し、城主の吉川経家は切腹した。
その後に秀吉は、今度は備中の高松城を攻めた。
この時も秀吉は信長に出陣を求め、毛利軍との決戦を企んでいる。
信長は毛利家攻めの準備を進めたが、本能寺の変で死んだ。