タイトル滝川一益とは何者か

(以下は『別冊歴史読本 戦国城盗り出世大名』徳永真一郎の記事から抜粋
2026年10月6日に作成)

🔵目次

人殺しと鉄砲を得意とする、織田信長に仕える

他国の調略で活躍する、忍術も身に付けていた

伊勢を攻略する

武田攻めでも活躍、関東管領に就任

本能寺の変で没落する

🔵人殺しと鉄砲を得意とする、織田信長に仕える

滝川一益は、近江の甲賀郡の出身で、彼の父は豪族・六角家の被官であった。

彼の祖父・貞勝が甲賀郡の櫟野(いちの)に城を築いて居城とし、彼の父・一勝は嫡男の範勝に櫟野城を譲り、自分は滝城に移住して滝川姓を名乗ったという。

一益は一勝の三男として生まれ、少年の頃から六角義賢(承禎)に仕えた。

ある時、浅井家のスパイである伊藤内蔵を討つよう義賢は家臣に命じたが、皆が尻ごみした。
その中で若き一益が引き受けて、鉄砲で暗殺した。

その後、一益は自分の領地の百姓と口論して3人殺してしまい、これが義賢の怒りにふれ、一益は出奔して河内国にいる叔父・庄司貞広を頼った。

一益は貞広の側室と密通(不倫)し、これを知った貞広は一益を殺そうとしたが、一益は逆に叔父を殺してしまった。

逃げた一益は、堺の町に移住し、鉄砲を製造している橘屋又三郎の弟子となった。

そして又三郎の下で3年間、鉄砲の製造と射撃の腕をみがいた。

尾張の領主である織田信長は、又三郎から鉄砲を買っていた。

この縁で一益は信長を知り、先見の明がある人だと惚れ込んだ。

一益の兄(次男)の恒利は、織田家に仕える池田家に養子入りしており、恒利の妻は信長の乳母だった。

恒利の長男が池田恒興である。

一益は、兄・恒利と甥・池田恒興の紹介で信長に仕え始めた。
一益が34歳の時で、信長は9歳年下の25歳だった。

信長は一益が仕官を願った時、一益に試しに火縄銃を100発打たせたところ、72発が的に命中したのを見て感心し、召し抱えたという。

🔵他国の調略で活躍する、忍術も身に付けていた

織田信長は、今川家の傘下にいる松平元康(のちの徳川家康)を織田家に従属させることを一益に命じた。

一益は、松平家の重臣である石川数正を通して交渉し、松平元康は今川家から織田家に乗り替えた。

この時、「おぬしは鉄砲ばかりか、弁舌もよく使うのう」と褒めたのが織田家の重臣の柴田勝家で、2人は気が合い仲良くなった。

永禄5年5月に松平元康が尾張の清州城に来て織田家と同盟を結んだ時、元康の案内役をしたのは一益だった。

『淡海温故録』に、こう書かれている。

伊賀と甲賀の者が忍び衆として知られたのは、鈎の陣で活躍してからだと。

鈎の陣とは、1487年に足利義尚・将軍が近江の六角高頼を攻めた戦争である。

バカ殿である義尚は、近江の安養寺に陣を布いたが遊興におぼれ、下鈎の真宝館に移り住むと京都から呼んだ公家たちと連歌、犬追物、猿楽、酒宴、遊女などに熱中した。

12月2日の夜、甲賀武士を先鋒とする六角軍は真宝館を襲い、覆面の甲賀武士たちは次々と放火して足利義尚軍に大打撃を与えた。

これが伊賀と甲賀の忍び衆が広く知られるきっかけとなった。

放火術は忍術の1つである。
甲賀出身の一益は、忍術や放火術を身に付けていただろう。

松平元康を誘降させた一益は、織田信長から左近将監に任じられた。
出世した一益の下には甲賀武士たちが集まり、甲賀忍者の集団が形成された。

永禄6年に松平元康の領地・三河で一向一揆が起きた時、一益はその状況を部下の忍者・美濃部源吾に調べさせた上で、「一揆を鎮めるには煽動者を殺さないことだ」と元康に助言した。

元康はこの助言に従い、煽動者と会って話し合い、和平に成功した。

永禄9年に元康は、徳川家康と改名し、信長の口添えもあって従五位下・三河守に任命された。

🔵伊勢を攻略する

上京を目指す織田信長に、一益は「近江よりも前に伊勢を征服すべきです」と進言した。

これに信長は喜び、一益に伊勢攻略を命じた。

永禄10年の春、一益は尾張の蟹江城を任され、得意の放火戦術で隣国・伊勢の桑名と員弁(いなべ)の2郡を切り従えた。

その後も伊勢を攻略し続け、長島の一向一揆の討伐でも戦功をあげたことで、一益は北伊勢5郡を信長から与えられた。

🔵武田攻めでも活躍、関東管領に就任

天正10年3月の武田家攻めにおいて、最高の軍功をあげたのは滝川一益だった。

武田家の総大将の武田勝頼が逃げるのを追跡して自殺させたのは、一益とその甥の儀太夫だった。

『津田幸菴物語』によると、一益の家臣の伊藤伊右衛門が勝頼の首を取った。

武田家を滅ぼした後、信長が一益に「恩賞に何を望むか」と尋ねた時、一益は「上様が持つ村田珠光の小茄子の茶入れが欲しいです」と答えた。

だが信長は「お前が茶道に没入するのはまだ早い、まだ隠居させんぞ」と言って、上野国に7郡と、信濃国に2郡を与え、関東管領となって関東を支配(攻略)するよう命じた。

この加増で、一益は50万石の大々名となった。

🔵本能寺の変で没落する

滝川一益が関東に入ってほどなく、天正10年6月7日に悲報がもたらされた。

「6月2日に主君・織田信長が、京都で明智光秀の軍に襲われ自刃した」との報せであった。

これを聞いた一益の重臣たちは、 「信長が死んだと知れば関東の武将たちは我らを攻めてくるでしょう。今のうちに退去して上洛しましょう」と進言した。

ところが一益は「そんな卑怯なことはできぬ」と言って、諸将を集めて信長の死を正直に話した。そして取っていた人質を返した。

これに感動した諸将を従えて、一益は関東の覇者である北条家と戦うことにした。

一益たちは神流川で北条軍と戦ったが敗れた。

仕方なく一益は兵をまとめて西に引きあげた。

もし一益が関東の拠点としていた厩橋城に残ったら、すぐには北条軍は攻めてこなかっただろうし、親しい徳川家康と同盟するも手あった。

とはいえ関東に領地を持って(関東に赴任して)わずか1ヵ月ほどで本能寺の変が起きたから、一益の尻がすわらなかったのも無理はない。

一益が尾張の清洲城まで戻った時、すでに羽柴秀吉が明智光秀を討ち、織田家の後継者も三法師(織田信長の孫、織田信忠の子)に決まっていた。


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