(『週刊文春2023年8月3日号 清水克行の記事』から抜粋)
足利尊氏は幕府をつくった人だが、尊氏という実名(じつみょう) のうち、「氏」は足利家に代々受け継がれる字だった。
これを「通字」(つうじ)という。
ちなみ足利家では、後に通字は「義」になり、義詮(よしあきら)、 義満、義持といった将軍が生まれている。
徳川将軍家では、家康、家光、家継など、「家」が通字だった。
足利尊氏の「尊」は、主君だった尊冶(たかはる、後醍醐天皇) から字をもらったものだ。
主君から字をもらうのは、「偏諱」(へんき)という。
つまり「尊氏」という実名は、通字と偏諱から成っている。
ここには個性の表現とか、音の響きといった、現代の名付けの要素はない。
偏諱は、室町時代にひろく浸透した。
伊達晴宗、武田晴信(信玄)、尼子晴久といった戦国大名につく「晴」は、将軍・足利義晴からの偏諱である。
伊達輝宗、上杉輝虎(謙信)、毛利輝元らの「輝」は、 同じく将軍・足利義輝からの偏諱である。
伊達家の当主たちは、「宗」を通字としつつ、その時の将軍から偏諱している。
偏諱は、持ち主の権威を高めるために使われた。
ただし有料である。
1545年に肥後の大名である相良氏の父子が、足利将軍から偏諱をもらおうとした。
仲介をした僧の安国寺真鳳(しんおう)は、次のように相良氏に伝えている。
「足利義晴・将軍は、義の字と晴の字の欲しいほうを申せと言っています。
義の字は(将軍家の通字なので)、特別のお礼が必要です。
晴の字は、通常の金額です。
父君は義の字をもらい、ご子息は晴の字をもらってはどうでしょうか。」
このアドバイスに従い、父は義滋(よししげ)となり、子は晴広となった。
この時の偏諱の金額は、2人合わせて三千疋(30貫文、今だと300万円)だった。
破格の安さだった。
伊藤義祐は義の字に五千疋、朝倉義景は一万疋、大内義長は一万疋、三好義長も一万疋を支払っている。
有馬晴純は晴の字に五千疋、宗晴康は三千疋を支払った。
(2024年6月17日に作成)