(以下は『播磨灘物語』司馬遼太郎著から抜粋
2003年頃の3~4月にノートにとって勉強したもの。司馬全集で読んだ。)
(※『播磨灘物語』は小説だが、面白かったので役立つかとノートにとり勉強した。
それをここに記録的に残す。
参考程度に読んでいただきたい。)
黒田氏は、近江北部の黒田村の出身。
官兵衛の曽祖父の頃に、黒田村を出たらしい。
曽祖父の頃は連歌の点者(審判者)をしていたと、司馬遼太郎は考えている。
戦国時代の初期は、今様(流行歌)、連歌、小袖などが流行した。
連歌は、公家や大名、僧、商人が始めて、庶民に浸透した。
又、一向宗と法華宗が流行した。裕福な庶民は自衛のために信者となった。
室町期は一時期、日蓮宗(法華宗)が爆発的な勢いで商人層に広まった。
戦国初期は、まだ城下町は存在しなかった。
初めて城下町を作ったのは織田信長である。
信長は家来を城下に住まわせて、町をつくり商人に自由に商わせた。
それまでは京都を除くと町は、港町か門前町のみだった。
黒田官兵衛の曽祖父の頃に、備前・福岡に移住した。
当時は、福岡と隣りの長船は刀を製造して非常に栄えていた。
近くの東大川で砂鉄が採れた。
官兵衛の祖父・重隆は、一定の職につかず牢人していたが、なぜかわかっていないが教養があり、とりあえず生活できていた。
備前守護だった赤松義村は、1521年に家臣だった浦上村宗に殺された。
村宗は、赤松家の領地の美作、播州も支配下に置いた。
ちなみに赤松氏は、嘉吉元年(1441年)に足利将軍・義教を殺害し、そのためいったん滅亡した。
だが、南朝の残存勢力が南朝系の皇族・自天王を擁して奥吉野にたてこもっていた(三種の神器を盗み出して保持していた)所を、赤松の遺臣が自天王を殺して神器を奪い、幕府に差し出した。
この功績で、赤松氏は1458年に再興された。
黒田重隆の時代に、堺が急激に発展して、福岡などはさびれ始めた。
重隆は生活苦から播州に移動し、姫路の竹森という大百姓のやっかいになる。
当時の播州は各勢力が割拠していて、別所氏と小寺氏が有力だった。
重隆は筋目正しい武家言葉が使えたため一目置かれた。
竹森は重隆に心服し、さまざまに援助する。
竹森一家は、のちに黒田家の重臣になり代々仕えてゆく。
黒田重隆に対し、広峰山の御師(神符=おふだを配って生活している者)も心服した。
重隆は、神符といっしょに黒田家に伝わる目薬も売ってもらうことにした。
なお室町期も、商人は農民よりも一段低く見られていて、へたをすると流れ者のように見られた。
だから商人を高く評価した織田信長や羽柴秀吉は、思いきった政策をする人だった。
黒田重隆は、米や銭の貸し業を始めた。
年5割の利息が普通だったが、重隆は年2割にし、さらに担保を取らなかった。
そのかわり目薬作りの奉公を月2回ほどさせ、さらに被官(家来)になれとの条件を出した。
数年で200人ほどの被官ができた。
天文12年(1543年)に、重隆の息子である兵庫助・職隆は、小寺藤兵衛・政職に仕官した。
いきなり職隆は自分の嫁を藤兵衛の養女にしてもらった。
職隆はすぐに北方で勢力を伸ばしていた香山加賀守を攻め殺し、評価された。
そして仕官して1年後には筆頭家老になる。支城の姫路城主にもなった。
黒田官兵衛・孝高は、天文15(1546)年11月29日に、黒田職隆の子として生まれた。
幼名は萬吉である。
後にキリスト教に入信し、洗礼名シメオンをもらった。
萬吉は、実母に育てられた。病弱で歌書を読むのが好きだった。
10歳の時に母は死去したが、この頃に父・職隆は小寺姓をたまわった。
萬吉は、圓満という老僧に初等教育を学んだ。
14歳で元服し、官兵衛孝高に。
16歳で小寺藤兵衛の近習になる。城詰めになり、初陣を果たした。
槍や馬は達者ではなかった。若い頃から大人びており落ちついていた。
19歳の時に、祖父・重隆が死去した。
20歳の時に、父が隠居し、当主になる。
これは父が官兵衛の器量を見込んだからである。
官兵衛は京都へ上京し、見聞を広めた。
22歳の時、小寺藤兵衛のはからいで彼の姪と結婚した。
司馬さんは、黒田官兵衛は物事の理解がすばやすぎる所があり、それが欠点になったと考えている。
又、人の心がよくわかる男ととらえている。
官兵衛は物欲や栄達欲はなく、人にいばる事もしない性格。
毛利元就は謀略家タイプである。
二つ三つの大決戦をした以外は、謀略と外交で版図を拡大している。
元就の行動は慎重で、冒険を避けた。
天下を狙える位置まで領土を拡大(11ヵ国を支配)したが、その後は守りを固めて、拡大策は採らなかった。
息子達にも、そのやり方を守るよう命じた。
京都で布教活動を始めた宣教師ビレラは、将軍にしばしば謁見を許され、将軍から布教の許しを得た。
そして南蛮寺を作った。
黒田官兵衛は南蛮寺を訪ねた。
南蛮寺において、和田惟政、高山右近らと親しくなった。
和田惟政は近江・甲賀の和田村の出身で、和田家はその地の名家だった。
近江・甲賀は、足利将軍家に事があると助けてきた土地柄である。
この時期になると、京都の支配者は松永久秀になっていて、松永は大のキリシタン嫌いだった。
『播磨灘物語』では、官兵衛は足利義輝・将軍に拝謁し、その後に帰国している。
余談だが、当時の酒はすぐ酢になるため、買い置きができなかった。
また、この時代は、女性は肉付きの豊かな方が美人とされていた。
永禄8年(1565年)5月19日に、松永久秀は足利義輝を暗殺する。
その話を聞き官兵衛は再び入京。洗礼名シメオンをさずかった。
翌永禄9年の夏に官兵衛は再び上京し、逃走中の足利義秋に拝謁した。
義秋の側には細川藤孝、和田惟政がいた。
和田や官兵衛と違い、細川藤孝は生涯キリシタンにならなかった。
足利義秋は若狭の武田義統を頼って落ちてゆき、官兵衛は姫路へ戻った。
義秋はその後に越前の朝倉氏を頼るが、当主の朝倉義景の態度は煮え切らず、ついに永禄10年に義秋は織田信長を頼って岐阜に行った。
ちなみに織田信長は、美濃を攻略すると井口を岐阜という地名に変えたが、領国の中心地の名を改名するという行為は信長以前は稀である。
足利義秋が信長を頼る際は、細川藤孝が知り合いの明智光秀にアプローチして交渉した。
この功績で細川と明智の知名度が向上した。
織田信長は永禄11年に入ってから、近江の六角氏に対して、「上京して松永、三好を誅滅するから、協力してくれと」六角氏に伝えた。
だがあっさり断わられた。
当時、信長は人質(庶子)を六角氏に出していたが、それを取り戻した。
永禄11年9月に、信長は六角氏を攻めて、二日で六角承禎を居城・観音寺城から逃走させた。
短期で観音寺城を落せたのは、大軍だった(尾張、美濃、伊勢の兵に加えて、徳川家と浅井家の援軍もあった)のと、事前に諸城主(六角家の家老たち)に工作していたためだ。
工作は、細川藤孝が担当した。
織田信長が京都に入ると、松永久秀、三好義継はあっさり降伏した。
信長は許して、松永久秀には大和一国、三好義継には河内国を与えた。
久秀は、信長入京以前から連絡を取り媚びを売っていた。
信長は、前将軍(足利義輝)暗殺の首謀者である二人をあえて罰しなかった。
二人を味方につけ戦闘を最小限にする事と、京都の秩序を短期に回復させて名声を高める事を選んだのである。
『播磨灘物語』では、黒田官兵衛はこの時に京都に入り、和田惟政の陣で障借りして参戦したと描かれている。
信長は畿内の抵抗勢力の掃蕩戦をしたが、獲得した城や土地のほとんどを足利義昭(義秋)の幕僚にあげてしまう。
それで細川藤孝や和田惟政らはみな城持ちになった。
永禄11年10月18日に、義昭は征夷大将軍になった。
義昭は、摂津を自領として信長からもらった。
義昭は、副将軍に信長を任命しようとするが、信長は断わった。
この時点では諸勢力は、「信長は一時的に京都をおさえて力を持っているだけで、織田政権は長くは続かない」と予想していた。
信長が岐阜に戻ると、すぐに三好家の一党が京都に攻めよせてきた。
信長は出陣し、掃蕩戦を再び展開した。
三好党は阿波へ撤退をよぎなくされた。
信長は、あえて畿内に領地を持たず、堺、近江・大津、近江・草津にのみ代官を置き支配下においた。
そして関所を廃止し、楽市楽座を行った。
織田信長は、元亀元年(1570年)1月に、大坂の石山本願寺に対して移転を命じた。
当時は、全国人口の1割が本願寺信徒で、各地に寺があり、寺は砦として籠れるように作られていた。
本願寺(一向宗)は、10ヵ国の支配地を持つ大名並みの力を持っていた。
同年9月に信長軍・1万5千人は、大坂の地で8千人の三好党と戦っていた。
その時、突然に石山本願寺が信長軍に攻撃を開始した。
本願寺軍は、雑賀衆、根来衆、湯川衆など2万人である。
さらに信長方の坂本城(※宇佐山城が正しい)を、朝倉・浅井の連合軍が攻撃してきた。織田方は、織田九郎と森可成が戦死した。
この時期は、信長が生涯で一番苦労した時期であった。
本願寺信徒は兵糧、武器を自ら調達して、50人、100人の単位で郷村をすてて石山の本山に登った。
信長が本願寺を攻めた当時、本願寺のトップは貴族化していた。
本願寺は朝廷に献金して、門跡の称号を買っていた。
本願寺のトップは縁組も公家と行い、公家言葉を使って、公家風の化粧をする者もいた。
そうして法主の血縁の者を、連枝(これは公家用語である)と呼んでいた。
朝倉浅井軍は、叡山(比叡山・延暦寺)に登ってそこを拠点にした。
叡山は、京都と岐阜を遮断できる場所にあった。
困った信長は、叡山に対して「朝倉・浅井に協力するなら焼き払うぞ」と通達した。
その頃、伊勢・長島の本願寺(一向一揆)も出現して、戦闘した織田信興は戦死してしまった。
この戦況を見た足利義昭は、信長が滅ぶと予想して、諸大名に信長討滅を命じる手紙を出した。
元亀元年12月に信長は、義昭をうまく懐柔して、朝倉・浅井との和睦を仲介させ、朝倉浅井軍を帰国させるのに成功した。
元亀2年5月に、伊勢・長島の一向一揆と戦った織田信長は、大敗し退却した。
家臣の氏家ト全が戦死し、柴田勝家も負傷した。
元亀2年5月に、大和の松永久秀が謀叛した。
武田信玄から「近々上京する」との手紙をもらったのが一因だった。
元亀2年9月12日に、信長は叡山を囲んで焼いた。
全員を皆殺しにし、全堂を焼くいた。
その後、叡山の生き残りは武田信玄に泣きつき、上洛(信長討伐)を乞うた。
彼らは信玄に、大僧正の僧位をおくる。信玄は大いに喜んだ。
元亀2年10月に、北条氏康が死去した。
同年6月に毛利元就も死去した。享年75歳。
元亀3年10月3日に、武田信玄は上洛のため3万の兵を率いて甲府を出発した。
だが元亀4年(天正元年) 4月に信玄は病死し、上洛は叶わなかった。享年52歳。
元亀4年2月に足利義昭は挙兵した。
しかし4月に信長に攻められて降伏。信長は処罰しなかった。
その後、すぐに(7月に)また義昭は挙兵したため、信長は義昭を追放した。
義昭の家臣のうち、和田惟政のみは信長方につかず、攻め殺された。
義昭は信長に追放された後、三好義継→雑賀衆→宇喜多直家と頼ってゆくが、皆から冷遇されて、最後は毛利氏を頼っていった。
毛利家は義昭を厚遇するが 信長を討つ行動は全くしなかった。
元亀4年(天正元年) に、織田信長は浅井家と長島・一向一揆を滅ぼした。
この時点でも世間では、武田家と毛利家の方が強いと大多数は思っていた。
天正3年5月21日の長篠の合戦で、信長が武田家に大勝してから、世間の評価が一変した。
長篠の合戦の後、小寺家ではどの勢力につくか評定し、黒田官兵衛の意見で織田家につく事が決定した。
官兵衛は、自らが小寺家の重臣として信長に拝謁するため赴いた。
官兵衛は信長に会見したが、気に入られて圧切(へしきり)の名刀をもらった。
織田家に臣従しようとする場合、織田家の将の誰かに介添を依頼する、「申次」(もうしつぎ)というシステムがあった。
介添をした者が、その臣従者の上司になった。
官兵衛は、羽柴藤吉郎(秀吉)を申次にするよう信長に命じられた。
ちなみに毛利家と戦った、尼子家や山中鹿之助(幸盛)という尼子家の再興を目指す勢力は、柴田勝家が申次だった。
信長は、毛利家との接触は天正元年からで、(表面上は)友好関係を採っていた。
この当時の関所は、税金を取るためのもので、防衛のためではなかった。
荒木村重は、初めは摂津・池田城主に仕えて出世し、三好党に属していた。
織田信長が京都に進軍してきた際に、村重は信長に臣従した。
信長の応援の許で、村重は摂津の平定に従事した。大将は和田惟政だった。
村重は和田惟政の寄騎だったが、和田が滅んだため摂津の国主となった。
村重の配下の中川瀬兵衛と高山右近は一族である。
中川瀬兵衛の父の長女が村重の嫁で、3家は近しい仲だった。
織田信長は、謀臣を一貫して持たなかった。
彼は万事について高飛車で、意見しにくい男だった。
武井夕庵は数少ない例外で、信州・諏訪家の出身で武田氏に滅ぼされた後、美濃で信長に拾われた男である。
信長は涼やかな容儀を好んだ。髭などはきれいに剃った。
岐阜城は、信長の好みにより畳を多く使っていた。
当時の城はみな板敷が常識だった。
信長は年少の頃から道具好きで、人間も道具のように考えて使用した。
信長は、配下の独断を嫌った。
信長は、私財を蓄える部下を嫌った。
羽柴秀吉は気前良くふるまっていたため好かれた。
信長は部下の怠けを最も嫌い、多少間違っても時間の無駄なく動くのを好んだ。
織田家は、国攻めをする場合、担当の将が領土の全て、または半分をもらえる請負制だった。
安土城や長浜城などの織田家が新しく建築した城は、商業の中心になるよう交通の要衝に造られた。
それまでは、城を商業の中心にするという発想はなかった。
天正2年3月に信長は、参議になり従三位になり、身分としては公家になった。
天正3年8~9月に、織田信長は越前の一揆を平定した。
柴田勝家に初めて1国を与え、国主に任じた。
信長は国主に対して、目付をつけるという新しい方式を採った。
一方、黒田官兵衛は主人の小寺藤兵衛、別所家、赤松家を説得して、3家の当主が上京して信長に拝謁するよう運んだ。
信長はこの時期になっても京都に屋敷を作らず、寺を宿にしていた。
英賀(あが)衆(三木氏)が、毛利家の吉川元春の応援を得て、5千の兵で黒田官兵衛のいる姫路城に攻めてきた。
吉川元春は、水軍を指揮下に置いていた。
官兵衛は1千の兵で奇襲し大勝した。
だがその後、毛利家を怖れた別所家と赤松家は毛利方についた。
天正3年9月に、明智光秀は丹波の攻略を始めた。
しかし光秀は他方面への援軍に忙しく、攻略ははかどらなかった。
織田信長は丹波攻略について、現地の豪族・波多野氏の降伏を許さず、殲滅の方針をとった。
信長は敵国に攻める場合、できる限り勢力を倒して、自分の直轄領にしようと考えるタチだった。
織田家は、天正元年まで家臣は蔵米で知行をもらっていて、土地はもらっていなかった。 給料制だった。
天正4年5月に、大坂石山軍(本願寺軍)に織田軍は大敗北した。
この戦いで、原田備中、 塙喜三郎(塙直政)らが戦死した。
信長は報を受けて急行し、自ら槍を取って戦い、何とか収拾をつけた。
信長方は3千、 石山方は1万5千の兵数だった。
天正4年には、毛利水軍に織田水軍が大敗北し、潰滅する戦争もあった。
この結果を上杉謙信は聞き、信長との和親を破棄して、毛利の誘いにのって毛利の働きかけで本願寺と和睦し、さらに毛利と同盟を結んだ。
天正5年8月17日に、上記の状況を見て松永久秀は再度、織田家に謀反した。
だが織田軍に攻められて、10月3日に居城を爆破して自害した。
天正5年の早春から初秋にかけて、織田軍は能登で上杉軍と戦い、紀州では雑賀党と戦い、さらに松永久秀の信貴山城と戦っていた。
そんな中、黒田官兵衛は、小寺家から織田家へ人質を出すよう進言した。
しかし小寺家の嫡子は白痴だったため、代わりに官兵衛のひとり息子の松寿丸(10才)を人質に出した。
官兵衛はキリシタンだったため、側室をもうけず、ほかに男子は居なかった。
松寿丸は、羽柴秀吉の持つ長浜城に預けられた。
天正5年10月19日に、羽柴秀吉は播州(播磨)入りのため、四千の兵を率いて出発した。
この軍事行動は、とりあえず現地の豪族たちを手なずけようとの考えだった。
だが秀吉が横柄な態度だったのと、彼の出自が悪いのとで、率いる兵数が少ないのもあって、評判は最悪になった。
だが黒田官兵衛は、自分の居城である姫路城を秀吉に差し上げるという、すごい策に出た。
なお黒田家では、官兵衛が外交と軍事を担当し、内政は父の職隆が行っていた。
織田家は、土木建築を盛大にやるという特色があり、それを宣伝に使っていた。
秀吉の配下の竹中半兵衛は、平素から「武道(戦術)の他に余事はない」と語り、戦術研究に全てをかけていた。
秀吉は天正5年11~12月にかけて、毛利家に付いていた宇喜多家の2城を落した。
この戦いで、官兵衛以外の播州の勢力は秀吉軍に参加しなかった。
参加しなかった理由の1つに、播州には一向宗徒が多かった事がある。(織田家はは一向宗と戦争中である)
落とした2城のうち、上月城には、信長の命令で尼子家の再興を目指す山中鹿之助らが入城した。700人と少人数だった。
黒田官兵衛は、播州の各地を遊説して回り、織田方に付くよう説いた。
このような仕事は、戦国時代には稀有な事である。
官兵衛は部下の栗山善助、母里太兵衛らに対し、師匠または長兄のように接して育て上げた。
別所家は信長に反感を持ち、信用しきれないと考えて、毛利方につく事を決定した。そして居城・三木城にこもった。
この挙兵に播州の8割が賛同し、7500の兵が三木城に集まった。
播州人は旧体質で、秀吉や信長の器量を見ずに、その出自や言動で評価を決めてしまった。
秀吉および両兵衛(竹中・黒田)は、別所家は相手にせず毛利家と決戦する方針に決定した。
そしてそのための援兵を信長に求めた。信長は即決し許した。
毛利元就は、山陰道は人情が荒く計算が少ないので吉川元春に攻略させ、山陽道は船の往来が多くて計策が多く用いられるので小早川隆景に攻略させた。
元就の死後もこの分担は変わらず。
毛利家は織田家との戦いを決意し、同盟している宇喜多家の頼みで上月城を攻める事にした。
毛利軍は天正6年3月に、五万の大軍で上月城を囲んだ。
同年4月末に、荒木村重が2万の軍を率いて、羽柴秀吉の援軍のため播州に入った。
秀吉は、信長に出馬を懇請した。
その理由は、援軍で来た滝川一益や明智光秀が信長でないと従わない事と、宇喜多家が信長が来れば寝返りそうなためだった。
当時の織田家領は538万石ほどで、1万石あたり250人ほどの兵数が基本だったため13万4千の兵を持っていた。
秀吉は自ら安土におもむき信長を説得したが、信長は上月城を見殺しにしろと命じた。
この見殺しは、織田家の声望を一気に下げた。
信長は山岳戦が苦手だったし、毛利の大軍に対しそれを上回る兵を用意する手立てがなく、勝つ見込みはないと判断した。
天正6年6月に上月城は落城した。
その後に織田軍は、播州の三木城以外を攻め落とした。
秀吉は但馬に入り平定した。
同年8月に秀吉軍8千を残して、他の援軍たちは元の担当エリアに帰還した。
秀吉軍は三木城を包囲した。
三木城はしばしば出撃してきたが、秀吉軍は撃退した。
毛利軍は雑賀衆と組み攻めてきたが、5千の兵を500の兵で退けた。
なお雑賀衆は水軍としても優秀だった。
三木城はしばしば出撃してきたが、秀吉軍は撃退した。
織田信長の特色として、功を立てた者には後の恩賞とは別に、その場で金銀か物品を渡すという行為があり、そのため金銀を運ぶ小者が必ずついていた。
宇喜多家は、当主の直家が陰謀でのし上がった者だけに、家臣も皆が自分の事しか考えておらず、君臣に信頼関係がなかった。利害のみの関係だった。
この時代の武将の倫理は処世術としての倫理で、倫理よりも利害が優先された。
堺の商人・小西寿徳(隆佐)は宇喜多家に出入りしていたため、羽柴秀吉は調略の使者として使い、その縁で息子の小西弥九郎・行長も秀吉と親しくなった。
行長は、生薬を朝鮮から買い入れていたため、朝鮮語が話せた。
隆佐は、「自分が死んだら教会に金を寄付して堺に病院を建ててくれ」と遺言して死んだ。
羽柴秀吉と黒田官兵衛は、宇喜多直家の調略に成功した。
しかし直家を嫌っていた信長は、恭順を許さなかった。
ところが荒木村重の謀叛が天正6年10月に起こったため、信長はやむなく許可した。
村重の謀叛の理由は、次のとおり。
攻めている石山本願寺に対して、村重の兵が兵糧を売っているとの噂が立った。
毛利家から寝返りの誘いがあった。
自分の支城である花隈城が毛利に陥とされ、責任を取らされそうだった。
上月城攻めの際に、村重の働きが鈍い事が噂になっていた。
信長の部下の扱いに対して、不安、不満があった。
荒木村重の謀叛に呼応して、小寺藤兵衛も毛利方についた。
黒田官兵衛は主君の小寺藤兵衛に、思いとどまるよう説得したが、藤兵衛は「荒木村重が翻心すれば私も従う」と主張した。
そこで官兵衛は、村重の説得のために摂津へ行った。
しかし説得に失敗し、捕まって牢へ入れられた。
藤兵衛はあらかじめ「官兵衛を送るので殺してくれ」と連絡していた。
織田信長は天正6年頃から秘書団(小姓集団)を作り、秘密を共有して、時に夜伽もさせ、信長の分身のような気分を持たせた。
信長は荒木村重が謀叛したので、摂津の村々を焼き、百姓をみな殺しにした。
これはやつ当たりで、怒った百姓が一揆を起こす可能性があった。
天正6年12月8日に、伊丹・有岡城を信長ら10万以上の大軍が攻撃した。
城兵は3千だったが、11ヵ月も有岡城は抵抗した。
信長は、日本戦史で類を見ないほど補給の感覚に優れており、堅実な戦争をした。
この時期に織田家は、石山本願寺、播州・三木城、伊丹・有岡城、丹波・八上城の四方面で攻囲作戦を行っていた。
三木城を担当する羽柴秀吉は、この四方面の敵は共に戦っていることに希望を見出していると見抜いた。
四勢力はいずれも毛利家の応援を待っていたし、織田軍の疲れを待っていた。
秀吉は、四方面のどれかが倒れれば希望を失って次々に倒れると見て、一番弱い 八上城に兵を集中し一気に攻め落とす事を、天正7年4月に信長に進言し容れられた。
この後、羽柴秀長と丹羽長秀が丹波攻めに加わり、6月2日に波多野家は降伏した。
丹波攻めの主将である明智光秀は波多野氏を助命したが、信長は許さず安土ではりつけにした。
信長はそれまで一般的でなかった、城攻めの時に付け城を築いてから城攻めするというスタイルを多用した。
天正7年9月2日に、厳しい状況と見た荒木村重は、身一つで有岡城から尼崎城へ逃げてしまった。
10月15日に有岡城では寝返る者が出て、城下は火の海に。
11月19日に有岡城は降伏。
幽閉されていた黒田官兵衛は救出される。その後に官兵衛は有馬温泉で湯治。
12月13~16日に、荒木家とその党類は家族を含めて皆殺しにされた。
この残酷な処置は、荒木村重が降伏しなかったのを「侍らしからぬ」と織田信長が判断しての見せしめであった。
信長は、他人、特に家臣に対して、侍ぶりの良いことを要求し、待ぶりが悪いと甚だしく憎んだ。
小寺藤兵衛はこの後、城から逐電して毛利氏を頼った。だが冷遇され、結局は播州に戻り官兵衛を頼った。官兵衛はあっさり許した。
天正8年1月17日に、三木城は降伏して、別所長治らが自害した。
三木城の城主らの切腹による終戦の仕方は、羽柴秀吉の考案だった。
兵士の命を助け、かつ戦争の勝敗が誰の目にも明らかなやり方である。
地待は、侍、武士、お目見得の身分で、大農場主であり、血族によって小さな党を結んでいる存在である。
騎馬で戦場へ行き、足軽などを従えていた。
徒士(かち)は、侍ではあるが、主君に拝謁できず、土地も持たない。
主君から米や金で養われ、その給与は知行とはいわず「扶持(ふち)」という。
徒士は、戦場では徒歩である。
地侍より格下で、主君に対する忠誠心は強い。
三木城の落城後、黒田官兵衛は1万石の知行をもらった。
居城・姫路城は新たな主君の羽柴秀吉にゆずり、山崎の地に城を築いた。
天正8年4月に、ついに石山本願寺は降伏的な講和を織田信長と結んだ。
これは信長から講和を持ちかけた。
織田家と本願寺の戦争は、足掛け11年の戦いだった。
終始、本願寺が優位に籠城していた。戦闘すれば本願寺が勝っていた。
本願寺は紀州に移転した。
信長は朝廷を動かして講和の調停をさせたが、朝廷が戦争や和平に口を出す事はこの時代は行ってなかった。久しぶりの事だった。
天正9年6月25日に、羽柴秀吉は鳥取城攻めのため出発した。軍勢は二万人。
鳥取城は、毛利家にとって山陰の主城だった。
秀吉は兵糧攻めをして、3ヵ月で落とした。城将の吉川経家は切腹した。
この間、黒田官兵衛は秀吉の名代として、四国の三好康長(申次は秀吉)と長曾我部元親(申次は明智光秀)の争いの調停をしに行った。
長曾我部元親は元来は親織田派で、信長が尾張一国の領主だった頃から下風に立って接触していた。
しかし元親の勢力拡大を見て信長は危機感を持ち、両者の関係が悪化した。
黒田官兵衛は、仙石秀久を助けて淡路を平定。
阿波に入るが、信長が軍を四国に送る時期でないと判断していたため何もできず、結局姫路へ戻った。
天正9年の年末。
秀吉は歳暮として大量の品々を安土に運び入れ、信長にほめられる。「大気者」と評された。
宇喜多家の勢力圏は備前と美作で、ここが織田側に寝返ったため毛利家の最前線は備中になった。
備中は、毛利の傘下に入った外様の土豪たちが治めていた。
備中では清水宗治の高松城が堅城で、信長と秀吉は宗治に対して「降伏すれば備中、備後を与える」と言って調略をした。
(だが宗治は寝返らなかった)
天正10年1月に、宇喜多家の当主・直家が死去した。
羽柴秀吉は黒田官兵衛と謀議して、後を継いだ8歳の秀家の後見役になり、岡山城に入って実質的に乗っ取ってしまった。
これにより宇喜多家の1万の兵が秀吉軍に加わった。
ちなみに、古代の吉備(きび)の国が、備前、備中、備後に分かれた。
天正10年3月に羽柴秀吉は、備中へ2万の兵を率いて出陣した。
宇喜多直家の弟は忠家。
忠家の長男は、後年の坂崎直盛である。
秀吉の死後に坂崎直盛は、主人の宇喜多秀家と揉め事を起こして離れ、徳川家康に属した。
この時、宇喜多家の家老級の者が何人も同様に家康に寝返ったが、秀家と争ったのは豊臣家を見限ったかららしい。
宇喜多家の家臣は、直家の頃から倫理よりも利害を優先した。
秀吉軍は、天正10年4月14日に岡山城を出発。
備中の諸城は、高松城以外は兵が千人以下で、秀吉軍が来ると簡単に落城した。 毛利家は備中を見捨てていた。
高松城のみ5千人の兵が居た。
羽柴秀吉の特質は、配下の兵士の損傷を惜しむこと。
高松城の水攻めは、秀吉自身が考え出したと、司馬遼太郎は解釈している。
縄張りも秀吉自らがやったとしている。これは部下の証言がある。
なお秀吉の土木工事は早さが特徴で、遊ぶ人員をなくして進行させる割り振りのうまさがあった。組分けをした。
高松城の水攻めは、川のせき止めだけでなく、工事を隠す塀も作った。
川の流れを変えるのは黒田官兵衛に一任され、官兵衛の部下の吉田六郎大夫が船を使う策を提言した。それが当たり成功した。
後になるが、石田三成は小田原城攻めの時に支城の忍城攻略を命じられたが、高松城と同じやり方で水攻めをしようとした。
だが完全に失敗し、味方の損害を出してしまった。
このときは忍城兵500人に対し、攻め方は2万もの兵がいた。
天正10年5月21日に、高松城を救援するための毛利軍はようやく集結し、3万余りの兵で布陣した。
吉川元春の子の元長は、元春以上に戦闘指揮がうまかった。
ずっと後だが小早川隆景は死の際に、遺言として「豊臣の世は崩れる。毛利家は外の事に関与するな。安国寺恵瓊が危ない、彼は毛利家を中央政治に関与させようとするだろうから遠ざけなさい」と言った。
隆景は人柄が良く、いたわりの心があったので、多くの人や配下から慕われた。
安国寺恵瓊は、安芸の安国寺で育ち、京都の東福寺(臨済禅の五つの本山の一つ)の住持に出世した。
彼は、京都における毛利家の外交を担当した。
天正元年に恵瓊の調略により、宇喜多家は毛利の傘下に入った。
隆景は元春を説得して、清水宗治に対し「織田軍に降伏するように」との密使を送った。
しかし宗治は断わり、宗治一人が切腹して開城する旨を伝えた。
隆景は、宗治が織田方についたのをきっかけにして、織田家と講和しようと考えていた。
講和の条件として、備中、備後、美作、因幡、伯耆の5ヵ国の割譲を考えていた。
当時は、足利将軍を呼ぶのは上様、守護大名はお屋形様、それ以下は殿と呼ばれた。
恵瓊は秀吉軍と交渉して、「秀吉が構和を受け入れる前提として、宗治の切腹がある。それがなければ秀吉の備中での戦功が立たず、信長も聞き入れない」と聞いた。
恵瓊は、この事を宗治に話した。
宗治は、自分の命で兵と毛利家が助かるならと受け入れた。
毛利家は、表向きは宗治の死は毛利の面目から受け入れられないとしたが、実際には織田との戦力差から受け入れた。
その頃、織田信長は秀吉の援軍要請を受けて、中国地方へ送る援軍を指揮するための準備をし、入京した。
だが6月2日に本能寺の変にあい、死去した。
長谷川宗仁は、堺の商人だが、武家が商売で成功した家で、彼は武人でもあった。
宗仁は本能寺の変の時、近くに泊まっていた。
彼は秀吉と仲が良かったため、備中の秀吉へ飛脚で変を知らせた。
飛脚は、3日の深夜に到着した。
官兵衛が対面し、秀吉から毛利家への交渉も一任された。
秀吉は、明智光秀から毛利家へ密使が来る事を予期し、網を張って4日朝に見事に捕まえた。
4日は、宗治の切腹が決定していた日で、秀吉は信長の死を隠し、切腹は予定通りに行われた。
秀吉は、膠着していた毛利家との講和を一気に進めて、翌5日に両軍が撤退する事で合意した。
4日夜に、毛利家にも本能寺の変の報が入った。
吉川元春と元長は秀吉軍の追撃を主張したが、小早川隆景に説得されて止めた。
秀吉は退却に際して、庄屋を集めて一揆を起こさないように人質を取った。
秀吉は姫路城に戻ると、法華の徒に信長の供養のお経をさせた。
さらに姫路城に旗を大量に立てて、ほら貝や陣太鼓もしきりに鳴らし、兵や庶民に戦争をアピールした。
秀吉の軍には、本能寺の変の前に使者として来た堀秀政(信長の直臣で側近)と、信長の四男で秀吉の養子になった秀勝がいた。
この事が、秀吉軍を単なる一方面軍より大きく見せていた。
秀吉軍が東に向かうと、途中で高山右近と中川清秀の軍が合流した。
さらに丹波長秀と織田信孝も合流した。
明智光秀の与力だった池田恒興も合流した。
丹羽長秀は競争心や欲が少ない人で、信長がみなに官職と位階を与えた時も辞退している。
織田家の軍法は、先鋒を担当するのは戦場に最も近い所に城と領地を持つ者だった。だから山崎の合戦では高山右近らが先鋒をした。
山崎の合戦の時、秀吉は1万の兵、丹羽長秀は3千、織田信孝は4千、池田恒興は4千、高山右近は2千、中川清秀は2千5百だった。
日本の合戦では、最も兵数を持つ者が最後尾に配置されて総大将となる。
最後尾にいるのは、前線の変化に対応して兵をふり分け出動させるためだ。
織田信孝は、秀吉が総大将になったのを嫌がり陣立てが遅れ、合戦当日の14日の正午にようやく完了した。
秀吉は、信孝がいなければ仇討ちの大義がないため、信孝が来るまで待った。
だが信孝の軍は、戦意が無くてすぐ敗走した。
斉藤利三は、稲葉一鉄に仕えていたが明智光秀に引き抜かれて、1万石で召しかかえられた。
利三は、つねに先鋒を引き受けた名将である。
光秀が丹波国主になったとき、利三は2万石に加増された。
山崎の合戦では、秀吉は右翼を強化すれば勝てると読み、加藤光泰に200人を率いて加勢させた。これが勝利のポイントになった。
当時の野戦は、負けた場合、大将を何としても逃がして、大将は城に帰りそこでどうするか決めるのが慣例になっていた。
(だから光秀も逃げた)
光秀は勝竜寺城に逃げ戻った。
そこには千人の兵がいたが、包囲した秀吉軍が北側だけは空けていて、そこから兵が逃げていき百人ほどに減ってしまった。
光秀は本拠の坂本に行くため脱出したが、途中で士民におそわれ自害した。
堀久太郎・秀政は、名人久太郎との異名があるほど何をやらせてもそつなく器用だった。さらに少年の頃、信長の寵童だった。
天正12年にあった、羽柴秀吉と徳川家康および織田信雄の戦争の時は、黒田官兵衛は代官として中国に居て、毛利家と宇喜多家の境界を定める任務をしていた。
同年に官兵衛は、播州12郡のうちの1つをもらい、3万石の大名となった。
秀吉は、九州攻めには37ヵ国から25万人ものを兵を出兵させた。
この戦争で兵糧や飼料を集めたのは、小西隆佐、建部寿徳(祐筆あがり)、吉田清右衛門、宮木長次郎だった。
彼らは、武器、弾薬の買い集めもした。
輸送船の運用と現地の支給業務は、石田三成、大谷吉継、長束正家が担当した。
当時の一般人の事務能力は低く、三成らはその点で傑出していた。
天正15年7月3日に秀吉は、九州戦役の論功行賞を行い、黒田官兵衛は豊前6郡をもらって12万2千石の大名になった。
同年8月、佐々成政の領地となった肥後で大反乱が起き、官兵衛も救援に出陣した。
その最中に豊前でも反乱が起き、反乱者のなかで最大派閥の城井鎮房に黒田長政は敗北した。
官兵衛は城井鎮房と和睦した上で、謀殺した。
天正17年の夏、黒田官兵衛は秀吉に隠居を申し出たが、止められた。
官兵衛は北政所(秀吉の妻)にかけ合い、家督を息子・長政に譲るのは許された。
4年後にようやく隠居が許された。
官兵衛は、小寺家に共に仕えていた亡友・後藤基国の子を引き取り、長政の幼なじみとして養育した。
これが後藤又兵衛・基次で、基次は黒田家で万石取りの侍大将になった。
後藤又兵衛は、官兵衛の死後に後を継いだ長政とそりが合わず、黒田家を退転した。
長政が「奉公構え」にしたため、又兵衛は仕官できず、乞食になった。
文禄2年2月に、黒田官兵衛は浅野長政と朝鮮に渡った。
(※この時は豊臣政権が朝鮮と戦争中である)
この時、軍監として石田三成、増田長盛、大谷吉継の3人が相談に来た。
官兵衛は、3人が来たのに長政と碁を打ち続けて無視した。
この後に官兵衛は帰国して秀吉に謝罪するが、許されず、頭を剃って如水と名乗って隠居した。
羽柴秀次(秀吉の後継者)のことを石田三成ら奉行衆は嫌って、近づかなかった。
秀次と多少とも近かったのは野戦派の人々で、秀次が黒田官兵衛と蒲生氏郷を名将として評価していたため、2人は割と親しかった。
黒田官兵衛は生まれつき我執に乏しかったため、物事の判断に優れた。
しかし同時に出世しなかった。
石田三成は人の評価のやかましい男で、秀吉に何を告げられるかと皆がびくびくしていた。
秀吉の行った朝鮮の役は、名分が無かったため士気が低かった。
諸大名は自前で戦費をまかなっていたため、戦意が低かった。
彼らの領内の百姓の不満も大きくて、心配の種だった。
現地の大将である加藤清正、小西行長に対し、諸大名は従順でなかった。
諸大名は、派遣された石田三成ら軍盤の態度にも反発して、さらに従わなくなった。
黒田官兵衛は秀吉に謁見を許されないまま、毎日伏見城に登城していた。
ある日、秀吉と三成らが会議しているのを次室で聞いていて、思わず次の言葉を吐いた。
「細々した事柄についての評定など無駄なことだ。
あれだけの大軍を統べる者に人を得ていないのが、一番の問題だ。
加藤清正、小西行長は、全体を考えていない。
眼中に韓人がなく、韓人は日本軍を憎んで山野に隠れてしまっている。
このままでは日本軍は餓死してしまうだろう。
あれだけの大軍を統べる者は、徳川殿か前田殿か私以外にない。」
豊臣秀吉が死に、関ヶ原の合戦となったが、この合戦の前に行った黒田長政の策は、父・官兵衛の指示だったらしい。
長政は策士のタイプではなかった。
長政は友情に厚いため諸将と仲が良かった。
それを生かして諸将を結束させて、家康側についた。
隠居後の黒田官兵衛は、豊前において毎日のように村々を回り、百姓と話したり子供と遊んだりしていた。
官兵衛は雑談が好きだった。
石田三成が挙兵すると、豊前にいる官兵衛は兵を募集して3千人を雇った。
官兵衛は三成の挙兵を、7月17日に知った。
官兵衛は9月3日頃に出陣した。
官兵衛の軍は、9月13日に大友義統の軍と野戦して大勝した。
この後、兵が1万3千まで増えた。
官兵衛は9月15日の関ヶ原決戦の結果を知ると、兵を収めた。
長政は関ヶ原合戦の功績により、筑前52万3千石の大大名に出世した。
官兵衛は、東西の戦争が百日以上かかると思っていたが、長政の活躍により短期で決着してしまった。
この後、黒田官兵衛は京都に移住したが、あらゆる階層の人から慕われ人気が高く、結城秀康までが熱狂的信者になった。
これを見た徳川家康が危機感を持ったため、官兵衛は九州へ戻った。
家庫は、長政とは別に官兵衛に領地と官位を与えようとしたが、官兵衛は断わった。
黒田官兵衛は、慶長9年(1604年)3月20日に59歳で病死した。
3月にめずらしく病臥し、長政が見舞うと「3月20日の辰ノ刻に死ぬだろう」と予言し、見事に当たった。
官兵衛は、「無欲であれば誰でも予見はできる」とつねづね言っていた。
官兵衛は、商人的な感覚の持ち主だった。
織田信長、羽柴秀吉も機略感覚は商人そのものだったし、その感覚を持たずにあの時代の天下統一はなかった。
秀吉の天下統一の戦略は、諸勢力へいちいち取引でのぞみ、相手から相手自身も気づかないような利益を引き出してやり、味方にひきこんだ。
官兵衛が主君の小寺家を織田方につけたのは、織田家の商人的感覚が自分に合っていたというのが大きかった。
官兵衛の商人気質の典型的な行動は、関ヶ原の合戦の時に、募兵を金を使ってした事だ。
これに対し徳川家康は、農村の庄屋を大型にしたような感覚の男である。
(2024年8月21日~9月5日に作成)