(『週刊文春2024年6月20日号 清水克行の記事』から抜粋)
室町時代の京都では、まず朝6時になると、行商人たちが物売りにやってきた。
米売りと豆売りは女性で、道にゴザを敷いて座り、客に桝で量り売りをした。
なおこの時代は女性に正座する文化はなく、片膝を立ててあぐらをかくのが普通だった。現在の韓国女性はこの座り方を守っている。
まんじゅう売りと法論味噌売り(ほうろみそうり)は男性で、天秤棒で持ってきて、やはり片膝立ちで地べたに座った。
法論味噌とは、焼き味噌にゴマやクルミを混ぜたものである。
ちなみに女商人たちは、商品を頭の上にのせて運んでいた。
男たちは烏帽子をかぶるので、この運び方はしない。
彼女たちの運び方は頭髪に負担があり、頭頂部の薄毛に悩まされていた。
昼の12時になると、すでに物売りたちは引き上げている。
そして今度は質屋にあたる「土倉(どそう)」に、銭を借りるため人々が質草を持ち込み始める。
室町幕府は、質草の受け取り(質屋へ行くの)は白昼に女性がするよう求めていた。
午後4時になると、銭湯は湯が沸いたことを角笛で知らせる。
そして家々では夕食の支度が始まる。
ぞうり売りと硫黄箒売り(いおうはばきうり?)は、この時間に売り歩いた。
硫黄箒は現在のマッチで、火をつける時の必需品だった。
(※ネットで調べたら、硫黄箒売りは、硫黄を付けた小さな木(マッチ)と、小さな箒(ほうき)を売る商人とのこと)
硫黄箒売りもぞうり売りも、笠をかぶり覆面をしていたが、賤民とされていたからだ。
彼らが夕方に商売するのは、人目を憚る存在だったためらしい。
夕方には、油売りも売り歩いた。
天秤棒で油桶を担ぎ、量り売りした。
夜7時になると、もう外を歩く人はいなくなる。
夜回り太郎という警備役が、夜回りをした。
翌日の朝4時になると、まだ暗い中で「蔵回り(くらまわり)」 という業者が活動した。
蔵回りは、大きな袋を背負い、土倉を回って質流れした品を買ったり、家々を回って不用品を買った。
売る側の世間体もあり、夜間に活動した。
馬買い(博労、ばくろう)と、皮買い(獣皮買い)も、この時間に働いた。
彼らは賤民の身分なので、日中には動けなかった。
明け方のまだ暗い時刻を「ばくろうどき」と言うのは、彼らの活動時刻に由来している。
(『週刊文春2024年9月12日号 清水克行の記事』から抜粋)
足利将軍の屋敷であった「花の御所」の中央には、「御小袖」という鎧を置く部屋があった。
「御小袖」は、 足利家の先祖・八幡太郎(源義家)が着用したと伝わる鎧で、これを所持することが足利家の当主の証となっていた。
長享元年(1487年)に、9代目将軍の足利義尚は、六角氏討伐の遠征中にこれを身辺に置いた。(長興宿禰記)
10代目将軍・義材(よしき)の六角氏討伐や、河内国の畠山氏討伐時も、同様であった。(拾芥記)
足利義材は家臣・細川家のクーデターにあった時、しぶしぶ御小袖を渡して将軍職を辞した。
11代目将軍・義澄が京都を追放された時は、御小袖は六角氏の家臣・九里が隠し持った。
義澄の子・義晴が将軍に就く時、御小袖は義晴に献上された。(御内書引付)
御小袖は、将軍が危ない時に鳴動して知らせたという。
6代目・義教が謀殺された時、8代目・義政の住居が謎の倒壊をした時、13代目・義輝が暗殺された時に、直前に鳴動したという。(言継卿記)
義輝の死後、御小袖は天皇の住居に運ばれた。(言継卿記)
永禄8年10月に、松永久秀と広橋国光を介して、御小袖は三好家に渡された。
その3年後に織田信長が三好家を戦争で破るが、御小袖は京都から逃げた三好軍と共に運ばれ、この時期に失われたようだ。
(以下は『週刊文春2024年9月5日号 清水克行の記事』から抜粋)
キリスト教は戦国時代(室町後期)に日本に伝わったが、その信者におかしな行動をとる者が出た。
彼らは上半身裸になって片手にムチを持ち、ムチで自分の身体を激しく打ち、激痛で叫んだりうめいたりしながら行進した。
出血しながら歩く不気味な集団に、人々は恐怖心から見ないふりをするのが常だった。
この「ムチ打ち苦行」は、キリスト教の宣教師が伝えたもので、かつてヨーロッパで流行した過激な宗教行為である。
日本に滞在した宣教師の報告に、こうある。
「毎日20~30人が、街路で血が出るほどムチ打ちの苦行をしている。教会に来てムチ打ちする者は、金曜日には百人を超える」
つまり毎週金曜日には、教会でムチ打ちの集会が行われていたのだ。
このムチ打ちは、ヨーロッパのイタリアで13世紀に始まり、14世紀に黒死病で死者が急増すると大流行した。
その後、ローマ教皇が異端の信仰と認定したことで下火になった。
ムチ打ちが日本で大流行した件について、宣教師はこう分析している。
「日本人は告白の秘蹟を好み、懺悔したがる」
日本では平安時代からケガレ思想や末法思想が流行しており、「罪を悔い改めよ」というキリスト教の原罪観念になじみやすかったのだろう。
それに当時は戦国乱世の時代で、殺りくが横行し正義は無かった。だから日本人はマゾのムチ打ちに走ったのだ。
また当時は、熱した鉄棒を握る火起請といった、呪術的な裁判も行われていた。
(2024年11月26日、2025年2月9日に作成)