タイトル織田信長の合戦歴①

(以下は『織田信長合戦全録』谷口克広著から抜粋)

天文3年(1534年) 1歳

5月に生まれる。幼名は吉法師。

幼年時に那古野城を父から譲られた。

天文15年(1546年) 13歳

元服し、三郎信長を名乗る。

天文16年 14歳

初陣。三河の大浜城を攻める。

天文17年 15歳

父・織田信秀と美濃の斎藤道三が和睦する。

道三の娘(濃姫)と婚姻。

天文18年(1549年) 16歳

三河の安祥城を今川氏に奪われる。

11月 現存する最古の制礼文書を下す。

天文21年(1552年) 19歳

3月3日 父・信秀が死去。家督を継ぐ。

4月17日 鳴海九郎二郎と戦う。

8月16日 清須軍を破る。

天文22年 20歳

4月下旬 聖徳寺で斎藤道三と会見する。

7月12日 清須城内で尾張守護の斯波義統が殺される。

7月18日 清須軍を成願寺で破る。

天文23年 21歳

1月24日 今川方の村木城を落とす。

4月20日 織田信光と謀り、清須城を奪取する。

5月 那古野城を織田信光に譲り、自らは清須城に移る。

11月26日 織田信光が家臣に暗殺される。

弘治元年(1555年) 22歳

叔父の織田信次は、信長の弟である秀孝を誤殺(狩り中に射殺)したため、守山城から出奔する。(後に赦されて復帰)

弘治2年 23歳

4月20日 斎藤道三が息子の義龍に合戦で敗れ、自害する。

6月 異母兄の織田秀俊が家臣(角田新五)に暗殺される。

8月24日 稲生で(織田信勝を擁立した)林通勝・柴田勝家の軍を破る。

永禄元年(1558年) 25歳

7月12日 岩倉城主の織田信賢と戦い、大勝する。従兄弟の信清も味方として参陣した。

11月2日 弟の織田信勝(信行)を清須城に招き、殺害する。

永禄2年 26歳

2月2日 上洛し、足利将軍・義輝に謁見する。

春 岩倉城をおとす。

永禄3年 27歳

5月19日 桶狭間で今川義元を破り、義元を討ち取る。

永禄4年(1561年) 28歳

5月11日 美濃を支配する斎藤義龍が死去。(龍興が継ぐ)

5月14日 美濃へ攻め込み、森部で斎藤軍を破る。墨俣砦を奪う。

5月23日 十四条にて斎藤軍と戦い敗れる。その後に両軍は退陣した。

永禄5年 29歳

1月15日 清須城で松平元康と会見し、同盟を結ぶ。

永禄6年 30歳

この頃に本拠を小牧城に移す。

永禄7年 31歳

2月6日 竹中重治が稲葉山城を占領する。

8月頃 尾張の犬山城(尾張の北端にある)を攻め落とす。城主の従兄弟・織田信清は逃亡。武田氏に身を寄せたという。

8月頃 犬山城の近くにある鵜沼城、猿啄城を攻め落とす。

永禄8年 32歳

5月19日 将軍・義輝が松永久秀らに攻め殺される。

7月 東美濃の重要拠点である加治田城が降参してくる。城主は佐藤忠能。
これを受けて斎藤軍は加治田近くの堂洞に付城を築く。

9月28日 出陣し、堂洞城を攻め落とす。

11月13日 養女を武田勝頼に興入れさせて、甲斐・武田氏と同盟を結ぶ。

永禄9年 33歳

閏8月8日 美濃へ出陣するが、川の増水により多数の兵が死に、退却する。

9月8日 足利義昭は越前に移住する。

この頃、信長に対し義昭から「私の上洛に供奉するように」との催促があり、義昭の仲介で斎藤氏と一時和睦した。

しかし信長は、まだ自分が主導して義昭を上洛させる自信はなく、実行しなかった。

永禄10年(1567年) 34歳

春 滝川一益を伊勢に派遣し、土豪たちを調略させる。

8月 初めて伊勢に出兵する。数城を落とす。

8月1日 美濃三人衆が降参してくる。

9月(8月15日説もある) 美濃の稲葉山城を攻め落とす。城主の斎藤龍興は逃亡。

この後、稲葉山城を岐阜城に改名した。

11月 初めて天下布武の印章を使用。全国制覇の意図を示す。

11月 正親町天皇から御料所の回復を命じる、応援(懐柔とおもねり)の綸旨(手紙)が届く。

永禄11年(1568年) 35歳

2月 再び伊勢に出兵する。神戸具盛とは和睦し、三男の三七郎(のちの信孝)を養子に出す。これにより神戸衆は配下に入った。

続けて伊勢の長野具藤を攻める。
長野家の家老らは具藤を追放し、信長の一族を新しい主君にしてくれと願い出る。

こうして信長の弟・信良(後の信包)が長野家の当主となった。

上記の2件によって、北伊勢を掌中に収めた。

6月頃 越前にいる足利義昭に、「上洛の準備が整ったので、岐阜に来るように」と連絡する。

義昭は7月13日に越前・一乗谷を出発し、25日に岐阜に到着した。

8月7日 (上洛する道の途中にある)近江の佐和山城に行き、六角氏を説得工作する。しかし六角承禎は応じず。

9月7日 岐阜城から出陣し、上洛の途につく。徳川家康軍も参加し、総勢六万人。

9月12日 六角方の箕作城を攻め落とす。

9月13日 六角承禎・義治の父子は観音寺城を捨てて、伊賀に逃亡。

信長は観音寺城に入る。南近江の六角方だった国衆は次々と降伏した。

9月22日 岐阜にいた義昭が合流。

9月26日 京都に入る。特に対抗する軍勢はなかった。

9月29日 三好三人衆の1人である石成友通の拠城・勝龍寺を攻め落とす。

同日 三好長逸の芥川城も攻め落とす。

上の2城の落城を見て、畿内の諸城は次々と降伏。

10月2日 唯一抗戦を選んだ池田勝正のいる池田城を攻める。勝正は降伏する。

10月4日 松永久秀が茶器・名物「つくもかみ」を持参して降伏する。
実は久秀は2年も前から信長に通じていた。

10月14日 足利義昭と共に京都に帰陣する。

10月18日 義昭は将軍の宣下を受ける。
足利義栄は9月に死亡していたので特に問題はなかった。

10月23日 義昭は能楽を主催する。この席で信長に対し、副将軍か管領に就くよう勧めるが、信長は断わる。

10月24日 義昭は足利氏の桐の紋章を、信長が使用するのを許す。

11月26日 信長は京を出発し、岐阜城へ戻る。

永禄12年(1569年) 36歳

1月5日 三好三人衆が義昭の居城に攻め寄せる。

2月 将軍御所の建設を始める。

5月 南伊勢の木造具政が降伏してくる。具政は北畠具教の実弟。

8月20日 伊勢へ出陣する。総勢7~8万人。

8月28日 北畠具教・具房の父子がいる大河内城を包囲する。

9月8日 大河内城に夜討ちを行うが、失敗し敗戦。兵糧攻めに切りかえる。

10月3日 和睦が成立。大河内城は開け渡され、北畠父子は別の城へ。
そして信長の二男・茶筅丸(のちの信雄)が具房の養子となる。

こうして南伊勢も信長の支配下となる。

10月11日 上京し、将軍と天皇に伊勢平定を報告。

10月17日 義昭と意見衝突し、予告なく岐阜へ戻る。

元亀元年(1570年) 37歳

1月23日 将軍・足利義昭に対し、自由な行動を封じる五条の条書を認めさせる。

同日 近国の大名たちに、「近々私が上洛するので、同時期に上洛して天皇と将軍に礼を尽くせ」との書状を送る。

2月30日 上洛。

3月1日 正装で参内し、天皇から天下静謐の執行権を獲得する。これは天皇から日本一の実力者と認められたという事。特に官位をもらったわけではない。

この時に上洛した大名は、三木、北畠、徳川、畠山高政、一色、三好義継、松永久秀など。

大田垣、宇喜多、大友は使者を送ってきた。
朝倉からは何もなし。

4月20日 越前へ朝倉氏討伐で出陣する。3万の兵。
初めて公家衆が従軍した。これは将軍代行と認められたためである。

4月25日 朝倉方の天筒山城を攻め、その日に落とす。

4月26日 金ヶ崎城を攻め、その日に落とす。

4月28日 同盟者の浅井氏が離反。朝倉方となって攻めてくる。信長はすぐに退却を決める。

4月30日 京都に到着。(いち早く逃げたので)従う者はたった10人だったという。

直後に六角氏が、逃げ込んでいた伊賀から旧領の近江に進出してくる。
配下の稲葉良通を派遣する。稲葉は六角軍を破る。

5月9日 岐阜への通路を確保できたので京都を出発し、岐阜に戻る。

5月12日 岐阜~京都の通路を確保するため、佐久間信盛、柴田勝家、中川重政を城主に配置する。
すでに森可成が配置されており、6月には木下秀吉、翌年2月には丹羽長秀も配置された。

これにより、近江の分封体制が確立した。

6月4日 伊賀の兵を中心にした六角軍を、佐久間・柴田軍が破る。

直後に、浅井方の堀秀村が降伏してくる。

6月19日 堀の降伏を受けて近江に出陣。浅井氏の居城・小谷城の近くへ進出する。

6月24日 織田信長軍に徳川軍5千が合流する。

同日 朝倉軍8千が小谷城に入る。

同日 浅井軍6千が、朝倉軍と共に出陣する。

6月28日 姉川にて、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が合戦。
織田方が大勝し、浅井・朝倉軍の死者は8~9千人になったという。

直後に織田軍は小谷城の支城の横山城を落とし、木下秀吉を配置する。

秀吉は堀秀村らを与力につけられ、浅井氏の滅亡まで秀吉の居城となる。

7月21日 三好三人衆ら1万3千は、管領家嫡流の細川六郎を盟主にして、阿波から渡海してくる。

彼らは雑賀孫一や斎藤龍興を仲間に加えて、本願寺西に陣を築く。

これに対し、河内の三好義継・畠山高政はあっさり敗れてしまう。

8月20日 信長は岐阜を出陣。

8月26日 信長は4万の兵を率いて三好三人衆の軍と対陣。

8月30日 足利義昭も信長の要請で出陣。

織田軍は三好軍の砦を攻め、あと少しで落とせる所までゆく。

9月6日 本願寺の法主の顕如は、門徒に宛てて「織田信長と戦うように」との檄文を出す。

9月10日 本願寺と浅井氏の同盟が成立。

9月12日 本願寺は信長軍を攻撃。敵対を宣告をする。

9月14日 信長軍が本願寺軍を破る。

9月12日 信長は本願寺と和睦交渉をするが物別れに終わる。

9月22日 信長は退陣する。
そこに「朝倉・浅井軍の進出で森可成が戦死した」との報が入る。朝倉・浅井軍は3万の大軍だった。

朝倉・浅井軍は京都に入り放火する。

9月23日 信長軍は急いで京都に向う。

9月24日 朝倉・浅井軍は決戦を避けて、比叡山に立てこもる。

信長は比叡山に対し、「味方するなら(奪った)比叡山領は全て還付する。せめて中立を守ってほしい。敵対するなら延暦寺はことごどく焼き払う」と通達する。

(※これは初めて知った。この前交渉があった後に、焼き打ちがあったのだと知る。)

比叡山は返事をせず、3ヵ月近くもにらみ合いが続く。
信長は一度、朝倉・浅井軍に使者を出して、決戦をしようと誘うが、反応は無かった。

11月21日 尾張・長島で一向一揆が蜂起し、小木江城を守っていた信長の弟・信興が攻め殺される。

11月26日 堅田にて信長の重臣の坂井政尚が、朝倉・浅井連合軍に攻め殺される。

11月28日 信長は、義昭を動かして天皇に和睦の調停を依頼する。

12月9日 延暦寺に対し、和睦をすすめる綸旨(天皇の手紙)が送られる。

12月13日 朝倉・浅井連合軍との和睦が成立。信長は即日に退陣をする。

12月15日 朝倉・浅井連合軍も陣を片づけて帰国。

この時の朝倉・浅井軍との対陣は、信長の人生で最も苦しい戦いで、もし連合軍が決戦を挑んだなら勝敗は分からなかった。

(以上は2025年7月22日に作成)


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