(以下は『織田信長合戦全録』谷口克広著から抜粋)
🔵元亀2年(1571年) 信長38歳
2月 丹羽長秀が近江の佐和山城を攻め落とす。丹羽は新城主として配置される。旧城主の磯野は降伏した。
5月6日 浅井長政は小谷城を出陣し、横山城の近くに布陣。
そして部下に堀氏の居城の鎌刃城を攻めさせる。
横山城主の羽柴秀吉はすぐに出陣し、百騎ほどで鎌刃城へ。
そして500ほどの兵で数倍の敵を切り崩し、追撃する。
その間、横山城は攻められたが竹中重治の活躍で守り抜いた。
5月12日 織田信長は長島攻めのため出陣する。5万の大軍。
自分の隊、佐久間信盛の隊、柴田勝家の隊、の3つに分ける。
5月16日 長島の攻撃をあきらめ退却をする。
殿軍をした柴田隊は、勝家が負傷し旗指物まで奪われる。
そして殿軍を交替した氏家ト全は戦死した。
大敗北であった。
9月1日 南近江の六角方の城を、佐久間、柴田、中川重政、丹羽長秀が攻め落とす。
9月3日 続けて南近江の一向一揆の拠点である、金森城も攻め落とす。
9月12日 信長は軍を坂本まで移動させる。そして軍勢三万に町の放火を命じる。
坂本は平安時代から延暦寺と結ばれ、交通の基点だった町。
延暦寺の堂舎も多数あった。
この放火で、郊外の日吉神社、叡山の象徴だった神輿も焼失した。
続けて延暦寺にも放火し、焼き殺された者は3~4千人にのぼったという。
9月13日 信長は入京し、将軍と天皇に焼き討ちを報告。なんら悪びれた態度はなく、天皇も抗議しなかった。
延暦寺と日吉神社の領土は全て没収となり、存在すら消された。
近江の支配体制がここに整った。
🔵元亀3年(1572年) 信長39歳
1月 伊賀にいる六角氏が、一揆と連合して(旧領の)南近江に進出してくる。
六角軍は金森・三宅の両城に立てこもった。
信長は、佐久間と柴田に攻撃させた。
3月5日 信長は北近江に出陣。放火をして浅井氏を挑発するが反応はなく、9日に帰陣した。
3月12日 入京。2ヵ月余りの滞在となる。
3月24日 将軍・足利義昭のすすめで、京都にて信長邸の建設が始まる。
5月13日 足利義昭は武田信玄に返書をし、信長の討伐を依頼する。
この年1月に本願寺顕如は信玄に太刀を贈って昵懇を重ね、松永久秀も前年5月から信玄と連絡を取り合っていた。
織田氏と甲斐武田氏は友好関係が続いていたが、それが崩れようとしており、信長包囲網が形成されつつあった。
7月19日 信長は北近江へ向けて出陣。5万の大軍。
7月21日 浅井長政のいる小谷城の攻撃を始める。
7月28日 朝倉軍一万が援軍として到着し、陣を築く。
朝倉義景自ら出陣してきたのだが、しかし全く陣から動かず。
8月8日 朝倉氏の重臣・前波吉継らが投降してくる。
信長は朝倉軍に使者を送り、決戦を持ちかけるが、断わられた。
9月16日 信長軍は岐阜へ退却する。
これは近々に武田信玄が織田討伐で出陣するとの報があったため。
信長は岐阜城に帰着後、すぐに義昭に対して17ヵ条の異見書を書き、厳しく批難した。
10月3日 信玄が出陣。
武田軍の別働隊である秋山信友は、織田方の岩村城を攻め落とす。
信長は、徳川家康の応援として佐久間と平手汎秀を派遣した。だが3千という少ない兵であり、家康が全力で戦うか監視する役目だったという。
12月22日 三方原の戦いで、武田信玄が徳川家康に大勝する。平手が戦死する。
🔵天正元年(1573年) 信長40歳
1月 北山城(京都)の国衆、摂津の伊丹が、足利将軍方に寝返る。
信長は義昭と和睦したいと考え、村井貞勝、島田秀満、朝山日乗を使者として送り、交渉させた。
ヘり下ってみせ時間稼ぎを狙ったが、和睦を断わられた。
(※信長は数ヵ月前には義昭に異見書を突き付けているから、えらく態度が変わっている。そうとう追いつめられていたのだろう。)
2月 義昭は石山と今堅田の砦に、自分の兵を入れる。
2月20日 信長は柴田・明智・丹羽・蜂屋に、上の砦の攻撃を命じる。
2月24日 石山・今堅田の両砦が陥落。
信長は再び和睦を申し出るが、義昭は断わったので、足利将軍の討伐を決意する。
3月25日 信長は岐阜を出陣。京都へ向う。
3月29日 いち早く細川藤孝と荒木村重が参陣し、忠節を誓う。
4月3日 義昭の度肝を抜くため、京都郊外を放火する。しかし義昭は和平を拒絶した。
4月4日 信長は、京都の上京がかねてより反抗的だったので放火する。
二条御所を包囲し、義昭に和睦を迫る。
信長はさらに、天皇に依頼して説得の仲介をさせた。
4月7日 信長と義昭の和睦が成立。
4月8日 信長は京都から近江へ向い、六角軍の籠る鯰江城(なまずえ)城を佐久間・柴田に攻撃させる。
同日 六角軍や一向一揆に味方している百済寺を焼きつくす。
4月12日 武田信玄が病没する。
5月15日 佐和山を訪れ、この場所で船職人に大船の建造を命じる。これまでにない規模の大きな船である。
7月3日 足利義昭は再び反信長の挙兵。槙島城に立て籠る。
7月5日 大船が完成。長さ54m、幅13m。これ以後、琵琶湖の移動に使われる。
7月7日 さっそく大船を使用して、信長は軍勢と共に京に向う。
7月12日 二条御所を攻め落とす。
7月16日 槙島城に7万の軍勢を向かわせる。
7月18日 槙島城は攻め落とされ、足利義昭は捕まり、追放される。
室町幕府が滅亡する。
その後、義昭方の岩成友通を淀城に攻め、落とす。
京都のことは以後、京都所司代の村井貞勝に任せた。
8月4日 信長は岐阜に戻る。
8月8日 夜に浅井方の阿閉(あつじ)貞征・父子が降伏との知らせが入る。
その注進が入った直後に、信長は自ら出陣。
佐久間、柴田、滝川、羽柴、丹羽らも出陣する。
8月10日 信長らの軍は小谷城の近くに布陣。
朝倉氏も当主の義景が自ら出陣してくるが、配下のうち朝倉景鏡や魚住景固らは従軍を拒否。そのため総勢で5~6千人位だった。
この後、浅井方では寝返りが多数起こる。
8月4日 信長は岐阜に戻る。
8月8日 夜に浅井方の阿閉(あつじ)貞征・父子が降伏との知らせが入る。
その注進が入った直後に、信長は自ら出陣。
佐久間、柴田、滝川、羽柴、丹羽らも出陣する。
8月10日 信長らの軍は小谷城の近くに布陣。
朝倉氏も当主の義景が自ら出陣してくるが、配下のうち朝倉景鏡や魚住景固らは従軍を拒否。そのため総勢で5~6千人位だった。
この後、浅井方では寝返りが多数起こる。
8月12日の夜 朝倉方の大嶽砦(500の兵がいた)を信長は自ら出撃して攻め落とす。
信長は朝倉義景は根性なしと分析し、大嶽砦が落ちれば義景は退却すると予想した。
この分析を部下に告げ、義景が退却を始めたら追撃するように命じた。
8月13日の夜 朝倉軍は信長の予想通りに退却を始める。しかし部下たちは半信半疑だったため動かなかった。
仕方なく信長は、自ら馬廻衆だけを率いて追撃。それを知った部下たちは急いで後を追った。
信長は部下たちを並べて叱りつけた。
これに対し佐久間信盛のみが「私ほどの家臣はいない」と抗弁し、よけいに怒られた。
上の追撃により、朝倉軍は2~3千人が討ちとられ壊滅した。この中には旧美濃国主の斎藤龍興もいた。(龍興は朝倉氏に身を寄せていた)
そのまま信長軍は敦賀城を落とし、朝倉氏の本拠である一乗谷城も落とした。
8月20日 朝倉義景は逃亡中に、朝倉景鏡に裏切られて自殺。朝倉氏は滅亡する。
信長は、前波吉継を越前守護にすえた。朝倉旧臣の中では最も織田軍の勝利に貢献したため。
8月26日 織田軍は近江に戻り、小谷城攻撃を再開する。
8月27日の夜 木下秀吉が小谷城の京極丸を占領。そして浅井久政のこもる小丸を攻撃。
8月28日 浅井久政は自害。
9月1日 浅井長政は妻のお市、その娘3人を信長の許へ送った後に自害。小谷城は落ち、浅井氏も滅亡。
旧浅井氏の領土は秀吉に支配を任せた。
9月6日 信長は岐阜城に戻る。
9月24日 長島の一向宗門徒と北伊勢の門徒が連携し、勢力を伸ばしているため、討伐するため信長は出陣。
北伊勢は制圧するも、船の調達が進まず長島の攻略は諦め、10月25日に帰陣の途につく。
この退却の際も、信長軍は殿軍が襲われ、林新二郎(林秀貞の息子)が討死した。
11月10日 信長は上洛。佐久間信盛に若江城の攻撃を命じる。
11月16日 若江城は落城し、三好義継は自害。
続けて佐久間軍は松永久秀のいる多聞山城を攻撃。
信長は久秀に降参を勧める。
12月26日 松永久秀は降伏し開城。
信長がこの降伏を認めたのは、多聞山城は西日本一の豪華な城で、天下の至宝がたくさんあったからといわれる。
🔵天正2年(1574年) 信長41歳
1月19日 朝倉旧臣の富田長繁は、一向一揆と組んで越前守護の前波吉継を攻め殺す。
しかしその後、富田は朝倉旧臣の中で(越前で)孤立してしまう。
1月末 武田勝頼が出陣し、美濃の明知城を包囲する。
2月5日 信長は明知城救援のため出陣。しかし間に合わず明知城は落ちてしまう。
3月28日 信長は東大寺の名香、蘭奢待を切り取る。
4月2日 本願寺軍が出撃し、中島城を攻め落とす。
織田軍は本願寺と高屋城を攻める。遊佐は討ちとる。
4月28日 本願寺と高屋城を落とせず、河内・摂津から撤兵。
4月 越前の混乱を見て、顕如は越前を一向一揆の国にしようとし、加賀から七里頼周を派遣する。
七里は富田長繁を戦死させ、朝倉景鏡も攻め殺す。
そして本願寺の坊官が支配する国にしようとする。
信長は、武田氏や長島勢との戦いを予定しており、越前のことは静観した。
越前では徐々に坊官と地元の土豪たちが対立。7月頃からは血を見る抗争となる。
5月 武田勝頼軍が遠江の高天神城を包囲する。
信長は5月15日に京都にてこの報せを受ける。
6月14日 信長は高天神城救援のため出陣。しかし救援に失敗。
6月17日 高天神城主の小笠原長忠は降伏して武田方になる。
7月13日 長島へ向けて岐阜城から出陣。信長は7万の大軍を率い、水軍も用意する。
この合戦は、畿内守備の明智光秀、越前の押さえをする羽柴秀吉、武田への備えをする河尻秀隆・池田恒興を除いた、全ての部隊が総動員された。
一揆勢は3万人で、信長は兵糧攻めを選択。
9月29日 兵糧の切れた長島は、助命を条件に降伏する。
しかし信長軍は一揆勢を次々と虐殺した。
ただでは殺されないと、決死の覚悟をした7~8百人の一揆勢が突撃をした。
このため信長の叔父の織田信次、庶兄の織田信広、弟の織田秀成、従兄弟の織田信成が戦死した。馬廻衆も大勢が戦死した。
この戦いでは、おそらく信長にも死の危険があっただろう。
信長は、一揆勢の逃亡防止のため柵を築き、放火を命じた。
2万人が焼き殺された。
11月 荒木村重に摂津の一職支配権を与える。
🔵天正3年(1575年) 信長42歳
3月23日 塙直政を大和の守護に任ずる。
塙は、前年に南山城の守備を任されており、対本願寺作戦の中心となるための配置であった。
これは、細川藤孝、荒木村重と共に対本願寺包囲網を敷くための人事である。
3月下旬 武田軍が、徳川家康の治める三河に侵攻する。
4月6日 高屋城と本願寺の支城を攻めるため、信長は十万の兵を率いて出陣。
4月19日 本願寺の支城を攻め落とし、香西・十河の一族を全て討ちとる。
同日 高屋城の三好康長が降伏してくる。これを許し、河内半国を委ねる。
三好康長は本願寺と親しく、四国でも三好一族の長老として権威があった。
その利用価値を認めた助命と思われる。
4月21日 信長は戦果に満足し、京都へ帰陣。
同日 武田勝頼軍は再び三河に進入。徳川方の長篠城を包囲する。
長篠城は守兵500人だったが、落城せず持ちこたえる。
5月13日 長篠城の救援のため、信長は岐阜城から出陣。
5月14日 岡崎に到着し、徳川家康軍と合流。
長篠城からの使者・鳥居強右衛門から状況を聞く。
5月18日 信長は長篠城の西に着陣。3万の自軍を南北に細長く配置する。
徳川軍6千はその南に陣を張る。
織田軍は馬防柵を立て、2日間、武田軍の様子をうかがう。
5月20日 武田軍は進軍し、織田・徳川連合軍と500mを隔てて向き合う地点まで進む。
信長は、酒井忠次の進言を採用し、武田軍の背後にある長篠城の付け城である鳶ヶ巣山砦の奪取を指示。
5月21日 日の出と共に武田軍が突撃してくる。
織田・徳川軍は動かずに鉄砲で応戦。
この戦いは、午前6時~午後2時まで続いた。
鳶ヶ巣山砦は戦いの途中で落ち、それにより武田軍は退却出来なくなった。そして突撃をくり返した。
武田軍は大敗し、武田勝頼が戦場を離脱した時、従っていたのは数人だったという。
信長は、嫡男・信忠に武田方の美濃・岩村城の包囲を命じる。包囲は落城する11月まで続いた。
8月12日 越前の一向一揆を討伐するため、信長は岐阜城から出陣。
この作戦は、ほとんどの部将が参加し、総勢は5万人以上であった。
一向一揆の軍勢は各地の城や砦にこもった。
8月15日 織田軍は、越前の各城や砦を次々と攻め落とす。
8月15~19日の間に、3~4万人の一揆勢が捕まるか殺された。無関係の農民も大勢含まれていたと思われる。
一揆のトップにいた下間頼照は捕まり殺された。
一揆に荷担した朝倉景健も降伏したが殺された。
七里頼周は加賀に逃れて、その後も一揆を指揮した。
8月23日 信長は、羽柴・明智・稲葉・簗田・長岡(細川)の部将たちを、加賀に侵攻させる。そして南部二郡を平定し、簗田をそこの守将とする。
この後、信長は越前に滞留して支配体制作りを進める。
そして柴田勝家に越前の3分の2を与え、残りを前田利家、佐々成政、不破、金森らに与えた。
信長は国掟を定め、柴田以下に厳守するよう求めた。
9月初めに信長は岐阜に帰った。
9月 丹後守護の一色義道に、丹後一国の支配を認める。
これは越前攻めなどに義道が参加し、忠誠を示してきたため。
9月初め 明智光秀は他の部将に先んじて、越前から居城・坂本へ戻る。
これは丹波攻略を命じられたためであった。
すでに6月に、丹波の国衆に対し「明智光秀を派遣するので助力するように」との朱印状を発行していた。
9月中 丹波に明智軍は進軍し、東半国を難なく平定する。
10月 明智軍は、丹波の西半国を治める赤井氏の居城・黒井城を包囲。兵糧攻めを行う。これは翌年1月まで続く。
10月21日 信長は、三好康長の仲介で本願寺と講和する。
しかしこれは一時的な休戦であり、本願寺はこの後に雑賀の鉄砲衆や門徒を入城させて、毛利氏とも連絡を取る。
11月4日 信長は従三位・権大納言になる。
11月7日 右近衛大将も兼任となる。
これに対し、公家衆への宛外(褒美・返礼)を行う。
11月14日 武田勝頼が岩村城の救援に来るとの報が入り、京都から岐阜に戻る。しかし勝頼は現れず。
11月21日 岩村城は降伏して開城。城主の秋山信友は磔にかけられる。
この時に信長は、かつて岩村城を武田氏に明け渡し秋山と結婚した自分の叔母を、自らの手で斬り殺したといわれる。
11月28日 嫡男・信忠に家督を譲る。岐阜城を譲り、尾張と美濃の大部分を与えた。
信長は自分の新たな居城として、安土城の建設に着手する。
(以上は2025年7月22~24日に作成)