タイトル織田信長の合戦歴③

(以下は『織田信長合戦全録』谷口克広著から抜粋)

🔵天正4年(1576年) 信長43歳

1月中旬 安土城の築城を始める。

1月21日 織田方だった丹波の波多野氏が裏切り、明智光秀軍を攻撃。

明智軍は敗れて退却。これより丹波平定は長期戦となる。

明智軍はこの後、他方面に駆り出されたので、次の丹波攻めは翌年10月になる。

2月23日 本拠の城が岐阜から安土に移り、信長は安土に移住。

4月14日 信長は本願寺攻めを、塙直政、荒木村重、細川、明智に命じる。

5月3日 塙直政・三好康長軍は、本願寺と海路の連絡を断つため攻撃するが、返り討ちにあい、塙は戦死する。

明智光秀のいる天王寺城も攻められて、落城寸前となる。

5月5日 急報をきいた信長は、自ら救援に向かう。突然のため3千の兵しか集まらず。

5月7日 信長は3千の兵数で1万2千の本願寺軍に大勝する。追撃して2700人を討ち取る。

信長はこれまで本願寺を侮っていたふしがあったが、認識を改めて、筆頭部将である佐久間信盛を天王寺城に配置し、7ヵ国の軍団を所属させた。

さらに10ヵ所の付城を築き、水軍も配置した。

7月13日 毛利の軍船(毛利氏に付く村上水軍)が、本願寺へ兵糧を入れるため大坂湾に現れる。

織田方の和泉の水軍と海戦になるが、毛利方が大勝する。

秋 加賀を任された簗田が結果を出せず、召還となる。

そして代わりに柴田勝家が加賀平定を命じられる。

11月25日 織田信雄に命じて、伊勢の北畠一族を一網打尽に謀殺する。

🔵天正5年(1577年) 信長44歳

2月2日 雑賀衆の一部と根来寺の者が降伏してくる。
これを機に信長は雑賀攻めを決める。

2月9日 信長は安土城から出陣する。

2月16日 和泉に着陣。総勢10万人。二手に分けて進軍する。

2月28日 中野城を攻め落とす。

3月1日 雑賀孫一のいる雑賀城を包囲。

3月15日 雑賀衆の反撃に遭い、講和して撤退する。

6月 安土城下町に13ヵ条の掟書を発行する。

閏7月 越後の上杉謙信は、能登の七尾城を攻めるため出陣する。
七尾城主の長綱連は信長に救援を求める。

能登が上杉謙信の領土になると隣の加賀も危険になるため、信長はついに謙信との戦いを決意する。

滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら2万の軍を、応援として越前に派遣する。

8月8日 柴田勝家を大将にして、加賀へ侵攻する。
ところが秀吉は勝家と衝突し、自領へ引き揚げてしまう。

一方、謙信は加賀の一揆勢と連絡を取り合う。

8月17日 本願寺の包囲作戦に参加していた松永久秀・父子は、勝手に帰ってしまい、居城の信貴山城に立てこもる。
これは上杉軍の動きに呼応したらしい。

信長は使者を送りなだめたが、久秀は応じず。

9月15日 七尾城内で親織田氏の長一族が殺され、城将たちは上杉謙信に降伏。

謙信は末森城も落として、加賀を南下する。
それを見て織田軍は退却を始める。

9月23日 手取川で上杉軍が織田軍に追いつき攻撃を仕掛ける。
織田軍は逃げて、多数が川でおぼれ死ぬ。

だが謙信は手取川の戦いの後、引き揚げた。
それを見た信長は、嫡男・信忠に松永久秀討伐を命じる。

10月3日 信忠軍は信貴山城を包囲。
信長は名物茶器である平蜘蛛の釜の提出を求めるが、久秀は断わる。

10月10日 信貴山城は落ち、久秀は自爆死する。

10月下旬 羽柴秀吉は、播磨平定の命令を受けて播磨に入り、親織田氏の小寺孝高の居城・姫路城に入る。

この時点で播磨国衆のほとんどは織田方であり、赤松氏、別所氏はすでに天正3年10月に上洛して信長に拝謁している。

秀吉は播磨国衆たちから人質をとる。

10月29日 明智光秀は丹波の籾井城を攻撃。

11月10日 羽柴秀吉は播磨平定を信長に報告。続けて但馬攻略に向う。

そして秀吉軍は岩洲城と竹田城を攻め落とす。

続けて秀吉軍は、毛利方の宇喜多氏の属城である上月城と福原城を攻め落とす。

上月城には客将の尼子勝久と山中鹿ノ介を配置する。

11月16日 信長は従二位になる。

11月20日 信長は右大臣に就任。

🔵天正6年(1578年) 信長45歳

1月6日 正二位になる。

2月 三木城の別所長治が離反して毛利方につく。別所氏は播磨随一の国衆である。

3月 明智光秀と細川藤孝は丹波入りし、波多野氏の本拠である八上城を包囲する。

3月13日 上杉謙信が死去。

3月29日 羽柴秀吉軍は三木城を包囲。

4月9日 信長は右大臣・右近衛大将を自ら辞職する。

4月 明智軍は波多野方の細工所城を攻め落とす。

4月中旬 毛利の大軍が上月城を包囲する。
羽柴軍は荒木村重軍と共に毛利軍と対峙する。しかし決戦はせず。

織田信忠を大将とした応援軍が播磨入りし、別所方の支城を攻撃する。

信長の指示により、上月城を見捨てて別所方の城を攻めることに。上月城は落城となる。

6月 滝川一益と九鬼嘉隆に命じていた大船の建造が完成する。

九鬼は6艘、滝川は1艘を担当していた。九鬼のものは鉄板で装甲した船である。

6月26日 九鬼の指揮で船団は堺に向い、本願寺の船団に大勝する。

7月20日 織田信忠軍は別所方の神吉城を攻め落とす。

続けて志方城も攻め落とした後、信忠軍は帰還。
羽柴軍は三木城の包囲を続ける。

9月24日 信長は、越中の攻略を斎藤新五郎に命じる。
新五郎は、織田氏の後援を受けている神保長住と協力して越中入りする。

9月30日 信長は堺にて九鬼の船団を視察。大いに満足する。

10月4日 斎藤新五郎軍は上杉方の河田・椎名軍を月岡野で破る。上杉方の方が大軍だったという。
これにより上杉勢力は越中の中部から駆逐される。

10月22日 三木城から兵が出撃し、包囲する羽柴秀吉軍の本陣に突撃する。
しかし秀吉・秀長軍は撃退する。

10月 荒木村重が謀叛との噂が信長に伝わる。

信長が使者を送り問うたところ、荒木村重は弁明するも出頭命令に従わなかった。信長は討伐は決める。

荒木は半年も前から毛利と通じていたという。

11月6日 大阪湾にて九鬼嘉隆の船団と毛利方の村上水軍が海戦する。

鉄板を張った装甲と大砲の力により、九鬼が完勝。これにより制海権を確保する。

11月9日 荒木討伐のため、信長は3万の兵を率いて出陣する。

信長は、荒木方の中川、高山右近を説得する。両将は降伏し開城する。

12月8日 信長は、荒木村重のこもる有岡城を力攻めするが敗戦。

馬廻衆に突撃を命じたが、最愛の側近だった万見重元が戦死した。

敗戦をうけて兵糧攻めに切りかえる。

12月21日 信長は安土城に帰る。

🔵天正7年(1579年) 信長46歳

1月 信長はのんびりと安土ですごす。

2月18日 信長は上洛し、鷹狩りなどをして過ごす。

3月5日 信長は荒木村重の包囲陣に参加する。5月1日までここですごす。

だが鷹狩りをしたり、箕面の滝を見物したりと、何のためにやってきたのかと思われる日々を送る。

3月 毛利方だった備前の宇喜多直家が、羽柴秀吉の調略により織田方に寝返る。

元々、天正元年11月に信長は、浦上宗景に対し備前・美作・播磨の三国を安堵していた。

ところが天正5年8月に宇喜多直家が、浦上宗景を攻めて、備前から追放していた。

織田方になった宇喜多は、毛利攻めの先鋒を任された。そして毛利方の三星城を攻撃。

5月2日 毛利の救援はなく、三星城は攻め落とされた。

5月5日 明智軍は、波多野方の有名な城である、氷上城を攻め落とす。

5月11日 安土城の天守が完成する。信長はそこに移住する。

5月27日 信長は安土城で宗論を主催する。

6月1日 丹波の八上城が開城・降伏。波多野氏は安土で磔になる。

なお、この城攻めで明智光秀の母が磔になったという話は、全くの作り話である。

8月9日 明智軍は、赤井氏の居城・黒井城を攻め落とす。
これにより丹波の平定が成る。

9月2日 荒木村重は、5~6人の伴を連れて有岡城を脱出。息子が守っている尼崎城へ移る。

これは逃亡と解釈されやすいが、そうではない。
尼崎には毛利氏の将である桂元将が来ており、毛利と連絡が取りやすかったのである。

9月10日 播磨では三木城救援のために毛利・本願寺連合軍が現れる。
羽柴軍はこれと戦い勝利する。毛利・本願寺軍は退却する。

9月17日 伊賀国衆の一人である下山が、織田信雄に寝返り、伊賀侵攻の案内をすると伝えてくる。

これを受けて信雄は、父・信長に無断で1万の兵を率いて伊賀に攻めこむが、大敗戦となる。

9月22日 信長は信雄へ譴責状を送りつける。

10月15日 滝川一益の調略により、有岡城の一部が寝返る。
これにより城下町と砦を落とす。

11月5日 信長は二条邸を皇太子に譲る。

11月19日 荒木村重の出頭を条件にして、有岡城の城兵を助けるとの約束が成立し、有岡城は開城する。

だが荒木は降伏を拒否した。

12月13~16日 荒木村重が降伏・出頭をしないため、有岡城にいた荒木の一族が全て処刑される。城兵も処刑された。

12月 信長は本願寺と和睦するため、天皇に会い女房奉書を出すよう依頼する。

10月24日 明智光秀は安土に赴き、丹波・丹後の平定完了を信長に報告する。

丹波は明智に、丹後は細川藤孝に与えられた。

丹後は一色氏に与えられていたが、この年に一色氏が反乱したので、明智・細川軍が平定した。

🔵天正8年(1580年) 信長47歳

1月15日 播磨の三木城が、別所長治ら3人の切腹、城兵の助命を条件にして、降伏を申し出る。羽柴秀吉は承諾する。

1月17日 三木城が降伏し、開城する。播磨が織田氏のものに。

2月 羽柴・宇喜多軍は、美作の毛利方の祝山城を攻め落とす。

3月 羽柴・宇喜多軍は、続けて高山城を攻めるが、落とせず。

3月17日 信長は、本願寺へ和睦の条件を提示する。

教団と寺の存続を認めるし、従順ならば南加賀の二郡を返還する。その代わりに、 7月20日までに大坂を引き渡せとの条件であった。

顕如はこれを了承する。しかし顕如の長男の教如は反対し不満をもつ。

閏3月5日 信長と本願寺の和睦が成る。
しかし反対する教如は徹底抗戦の檄文を各国の信徒に送る。

閠3月9日 柴田勝家軍は、野々市砦を攻め落とし、能登との国境まで進攻する。

北陸における一向一揆の司令塔だった、金沢御堂が焼失する。

閏3月11日 織田軍は大坂湾の封鎖を解く。

4月9日 顕如は大坂を退去する。
しかし教如の一派は大坂に残り、抗戦を続ける。

5月21日 羽柴軍は、今度は因幡に進攻し、因幡守護・山名豊国の居城である鳥取城を包囲する。

豊国はあっさり降伏し、赦されてそのまま鳥取城を任された。

5~6月 能登において織田方の長連龍が、上杉方の領土を次々と制圧する。

7月 能登の上杉方の温井・三宅は、七尾城を開いて降伏する。

8月2日 本願寺教如も抗戦をあきらめて、大坂を退去する。
直後に本願寺は火災で全焼する。これにより加賀二郡の返還がなくなった。

8月15日 信長は、自ら本願寺跡を検分する。
その地で、本願寺攻めを担当していた佐久間信盛・父子に対し、19ヵ条の折檻状をしたため、父子を追放する。

信長は本願寺がそのままの形で手に入ることを求めていた。
だからこそ今まで譲歩してきた。
だが焼け跡になってしまった。その怒りが佐久間信盛に向ったのだろう。

同時期に林秀貞と安藤守就も追放された。

9月21日 山名豊国は、毛利氏に心を寄せる家臣によって鳥取城を追放される。

鳥取城を奪った者たちは、毛利の将を城主にむかえるため、毛利氏に派遣を要請する。

これに対し羽柴秀吉は、兵糧攻めを行う事を決め、米の買い占めを始める。

11月17日 柴田勝家軍は、加賀の一揆の中心人物たちを討ちとり、首を安土に送る。

これで加賀は平定となった。

(以上は2025年7月25日に作成)


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