(以下は『織田信長合戦全録』谷口克広著から抜粋)
🔵天正9年(1581年) 信長48歳
1月15日 安土で左義長を催す。
2月 信長は、佐々成政をまだ未征服の地である越中の大名に任ずる。
佐々は富山城に入り、越中で上杉氏との戦いを行っていく。
2月28日 信長は京都で馬揃えを行う。
3月 側近の菅屋長頼を能登の七尾城主に任命し、不穏分子を一掃せよと命じる。
この後、能登では旧上杉方の遊佐、温井、三宅が粛清される。遊佐は6月27日に粛清された。
3月18日 羽柴秀吉が攻略中の因幡では、鳥取城の要請に応えて、毛利氏の武将・吉川経家が城主として鳥取城に入城する。
7月 菅屋長頼は、越中の旧上杉方の寺崎も城へ呼び出して殺害する。
7月5日 羽柴秀長軍が鳥取城を包囲。
7月12日 秀吉本隊も鳥取城包囲に加わり、兵糧攻めを始める。
8月 信長は、前田利家を能登支配の大名に任命する。
8月 鳥取城救援のため毛利軍が現れるとの情報が安土に入り、信長は自らの出陣を決めて諸将に用意を命じる。
しかし毛利は出陣せず、信長の出陣計画は中止に。
(※信長はしばらく前から怠惰の傾向が見られるが、この時の態度を見るとまだ一線は越えていない。)
8月23日 毛利水軍が現れて、兵糧を鳥取城に入れようとするが、織田水軍に完敗する。65艘もの船が米と共に沈没した。
9月3日 伊賀の柘植領主の福地が、織田氏に寝返ってくる。
信長はこれを好機と見て、伊賀攻めを命じる。
伊賀攻めは、総大将は織田信雄で総勢4.2万人となった。
9月6日 伊賀で佐那具城攻めが始まる。
伊賀攻めで最も激戦だった所で、滝川一益、丹羽長秀、堀秀政が活躍した。
9月11日 佐那具城が落城する。
この時、無差別の殺戮が行われ、織田方で参戦した筒井は住民を逃がしたため怒られている。
10月9日 信長は、自ら伊賀の視察を行うため安土を出発する。
この視察では、諸将は争って信長の座所を飾り付け、珍物でもてなした。
(※部下のこのような態度を平気で受け入れるところに、信長の堕落を感じる)
伊賀は4分の3が織田信雄に、4分の1が織田信包に与えられた。
10月 鳥取城は兵糧攻めに耐えきれず、吉川経家は自分の切腹と城兵の助命を条件に、降伏したいと秀吉へ伝える。
これに対し秀吉は、吉川経家ではなく、鳥取城の実質的なトップである森下と中村の処断を要求する。
交渉の末、秀吉は経家の主張を呑む。
10月25日 鳥取城は降伏・開城。吉川経家は切腹。
森下・中村も前日に切腹していた。
こうして因幡は織田氏のものとなった。
秀吉は戦いを止めず、吉川元長軍に包囲されている、伯耆の羽衣石城の救援に向う。
それを見て吉川軍は退却した。
羽衣石城の南条元続は織田方だと鮮明に打ち出しており、伯耆も実質的に平定された。
11月 武田勝頼が、父・信玄の養子になっていた於坊(勝長)を信長のところに送還する。これは織田氏との断交宣言に等しい行いである。
🔵天正10年(1582年) 信長49歳
2月1日 武田方の木曽義昌が、織田氏に降伏する。
これを知った武田勝頼は義昌討伐のため出陣する。
2月3日 信長は、武田氏討伐を嫡男の信忠に任せる。
信忠配下の森長可と国忠正が出陣する。
2月12日 信忠の本隊と滝川一益軍も出陣する。
織田軍が攻めてくると、武田方の城々は戦わずして次々に降伏・開城する。
武田家中でNo.1の重臣だった穴山信君も寝返り、徳川家康に降った。
勝頼は穴山の寝返りを聞いて退却する。
3月2日 信忠軍は仁科盛信の守る高遠城を包囲し攻撃。
激戦となるがその日に攻め落とす。仁科ら400~500人が討ち死にする。
3月3日 勝頼は一族の小山田信茂を頼って逃亡する。
3月5日 信長が武田攻めに加わるため安土城から出陣。
3月7日 信忠軍が甲府に進攻し、武田一族の者をことごとく殺害する。
3月11日 武田勝頼は滝川軍に見つかり、切腹して死亡。
甲斐・武田氏が滅ぶ。
3月11日 北陸で戦う柴田勝家軍は、取られていた富山城を取り戻す。
柴田軍は、越中における上杉方の拠点である、魚津城と松倉城を包囲する。
3月15日 羽柴秀吉軍は、備中攻めのため姫路城から出陣。まず調略を行う。
3月19日 信長は信濃の諏訪に入り、旧武田領の知行割りを行い、国掟を決定する。
4月2日 信長は諏訪を発ち、富士山見物などをしながらゆっくりと帰還。徳川領も見ながら東海道を行く。
4月14日 羽柴軍は備中に進攻。次々と城を攻め落とす。
4月21日 信長は安土に戻る。
4月25日 村井貞勝の提案により、朝廷において信長への三職(太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれか)推任が話し合われる。
5月4日 魚津城救援のため、上杉景勝が春日山城から出陣する。
5月4日 朝廷から三職推任の勅使が安土城へ派遣される。しかし信長はこれを断わる。
5月7日 羽柴軍は、備中の重要拠点である高松城を包囲する。そして水攻めを行う。
5月中旬 高松城救援のため、毛利輝元が自ら出陣し、高松城の近くまで進軍してくる。羽柴秀吉は安土に援軍派遣を要請する。
5月17日 秀吉からの報告を受け、信長は自ら毛利討伐に出向くことを決め、明智光秀・細川藤孝・池田恒興らに出陣の用意を命じる。
5月下旬 信濃から森長可、上野から滝川一益が越後侵攻を狙ったため、上杉景勝は退却し春日山城に戻る。
5月29日 信長は上洛する。6月4日には中国戦線へ出陣する予定であった。
6月1日 信長は大勢の公家衆と会う。
暦の件は両者の意見が平行線をたどり、結論が出ず。
暦の件とは、信長が閏12月を入れるよう求め、公家衆は来年1月に閏月を入れるよう説いたものである。
6月2日 明智光秀軍が、信長の宿所の本能寺に攻め寄せてくる。
信長は切腹して死亡。本能寺は燃え、遺骸は見つからなかった。
光秀軍にいた本城惣右衛門の覚書によると、攻め込んだ時に本能寺は無人に近かったという。
🔵『織田信長合戦全録』の感想と覚え置き(2011年3月12日にノートに書いた)
信長が京都・上京に放火した事は知らなかった。
この本を読むと、信長は放火を非常によく行っている。当時は戦術の常道だったのかもしれないが、被害を考えると暗い気持ちになる。
信長包囲網のメンツを見ると、よくしのげたものだと思う。
徳川家康がこの時に裏切らなかったのも凄い事だ。
これだけ厳しい状況なのに織田氏が滅びなかったのは、それだけ地力があったのだろうし、敵方が連携しないように策を使ったり、武田氏に対しては上杉氏を当てるなど外交も駆使したのだろう。
明智光秀については、倫理感の強い性格で、本能寺の変を起こしたのもそれが要因とされる。
だが光秀は信長の行った大抵の焼ち討ちや虐殺に参加しており、その説はあやしいと思う。
信長の合戦歴を見ると、近江や畿内では反乱が多く、統治できていない印象になる。
だがかなり統治できていたはず。
そうでなければ滅ぶはずだし、兵も動員できない。
信長の統治システム(政治)が他より優れていたのは間違いない。そうでなければ民衆が支持せず滅んだはずだ。
浅井氏が信長を裏切った時は、そうしなければ朝倉氏が一気に滅んで、流れが一気に信長に傾く時期だった。
だから裏切る時期としては的確だったと思う。
金ヶ崎で信長が死んでいれば、浅井長政は名将として語りつがれただろう。
信長の決断力、退却能力がすごすぎだのだ。
並の人物ならば、あの局面なら諦めて自害するだろう。
この本で勉強するまで、六角氏が信長上洛の際に一気に滅んだのが、あっけなさすぎて不思議だった。
しかし滅んだわけではなく、ゲリラ戦術をとって対抗する道を選んだのだと判った。
🔵『秀吉戦記』谷口克広著も勉強したが、同書から信長についてを2011年4月5日にノートにとったのが、以下のもの
浅井攻めの時、織田軍の主な部将は、明智光秀(これは森可成の死後に代わりに配された)、佐久間信盛、柴田勝家、中川重政、丹羽長秀、木下秀吉、滝川一益の7将だった。
このうちの滝川をのぞく6人が、琵琶湖ぞいに配置され、岐阜~京都間を結ぶ路に城主として並べられた。
その後、佐和山城主だった磯野員昌が降伏すると、力量を買われて6将と同格として配置された。
中川重政は、元亀3年8月に支配地を接する柴田勝家と争い、柴田の代官を殺してしまったことで失脚した。(『武家事紀』より)
浅井氏の滅亡直後に、丹羽長秀は若狭の支配を任された。
天正元年7月10日 足利義昭追放の直前に、細川藤孝は山城の西岡を、荒木村重は摂津の大部分を、信長から与えられた。
この2名は、畿内勢力の中で信長に高く評価された。
天正元年の後期頃に、織田信忠は家臣を付けられ、独立した家臣団を形成し始めた。
尾張・美濃の家臣たちが信忠に付けられ、信忠は武田氏の押さえの役目をゆだねられた。
これは後に作られる織田軍の方面軍の最初のもので、池田、森長可、河尻、簗田らが所属となった。
この信忠の方面軍は、父から家督が譲渡されたり、佐久間信盛と林の追放を経て、段階的に成長していった。
浅井氏の滅亡時に秀吉がもらった領土は12万石ほど。
この加増により、領土においても柴田、佐久間、丹羽に並ぶ部将となった。
天正3年8月 信長への敬称が「上様」になった。
これは天下人として自他共に認める状態になったためと考えられる。
(※著者の谷口氏は、きっかけは同年5月の長篠の戦いでの勝利だと考えている)
(以上は2025年7月27日に作成)